Posts Tagged ‘写真’

写真撮影枚数の推移

2000年に自分で最初のデジカメを買ってからの機種ごとの撮影枚数の推移をグラフ化して見た。携帯電話での撮影は極端に少ないので除外する。

以下は自分の覚書

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11 2017

フィルムスキャナ

前のエントリーでリバーサルフィルムのスキャンのことに触れた。

Kenkoで発売しているフィルムスキャナを買って、今手持ちのリバーサルフィルムはすべてスキャンし終わった。

 

しかし、何せ保管状態が悪いために埃は入るは、黴がはえているはで、さんざんな品質だった。ここに掲載することも憚られる程のもの。

2017/07/11

んねぞう

 

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写真プリントのスキャン

自分が生まれてからこのかた、折々に親が写真を撮ってきてくれたお陰で、幼い時の自分、家族、風景を振り返ることができる。長じて自分で写真を撮れるようになっても、西暦2000年に父の死去のタイミングでデジタルカメラを買うまでは、全てネガ或いはリバーサルフィルム、プリントでの管理であった。

帰省の折に、極くたまに本棚や押入れに積んである、古色蒼然たるアルバムを手に取り、思い出に浸る。

と同時に、この思い出の縁(よすが)となる紙が、将来この家が無住となった時に、どのように受け継がれるか、と言う心配をせざるを得ない。と言うのは、現在、結婚した後の自分の家族に関するアルバムが既に20冊以上ある。加えて、自分が生まれて、学校を卒業して都会に出るまでの間の写真のアルバムが10冊以上ある。これらを保管するスペースは、我が家にはない。あっても、良好な状態で保管する環境は、我が家にはない。このせいで、私が学生時代に撮り貯めていたリバーサルフィルムが駄目になった。これについてはまた稿を改めて記すが、いずれにしても、文化財でもない我が家の写真が永久に保存されることなど望むべくもなく、せめて子供達位までには受け継がれて欲しい訳だが、この高度情報化社会で、紙の写真の電子化(イメージング)と言う有難い方法がある。

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変な人に見られない方法

自宅から車で10分程走ったところに大き目の自然公園がある。季節になると山一帯が桜で覆われ、花見客で賑わう。この人ごみを避けて日没後に三脚を担いで出かけた。その写真をんねブラに掲載した(人気(ひとけ)のなくもない公園 – Apr. 2017)。

 

夜に公園を一人でカメラをぶら下げて歩いていて不審者と間違えられないためにはどのようにしたら良いか。最近の世情から、これはちょっと切実な問題。

① 背中に「私は怪しい者ではありません」と書いたプラカードを下げる

→ ますます怪しい。恥ずかしい。

② 背中に「私は趣味で風景写真を撮っています。決して盗撮等していません」と書いたプラカードを下げる

→ 上に同じ。

③ 「あ~、良い景色だ、これだこれ、傑作が撮れたぞ」あるいは「あ~駄目だ駄目だ、なんで俺はこんなつまらない写真しか撮れないんだ」等と大声で言いながら撮る

→ 恥ずかしい。別種の変な人とみられる。また、後者は当たっているだけに自分で言って落ち込む

④ 疑われるような時間帯に出かけない

→ 嫌だ……

究極的には、各所に設置されているであろう防犯カメラの映像と、撮った写真の画像を確認してもらって潔白を証明するしかないのだろうが、私の撮った写真を見て、その種の疑いは晴れるにしろ、見た方は「…」と言う感じになるだろう。嫌だが仕方がないか。

 

2017/04/16

んねぞう

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04 2017

ぎょっと物件

私の運営している写真ブログ”んねぞうがカメラを持ってブラブラ – んねブラ“は写真家三井光一氏の写真ブログ “シグマを持ってあちこちをブラブラ。写真家・三井”サスラウ”光一が綴るフォトダイアリー” に触発されたものだが、氏はシグマのカメラがその描写を得意とする被写体を”フォビオン”物件と称している。

昨日、私は人気(ひとけ)のない公園に行って写真を撮って来たが、その中でぎょっとするものに出くわして写真を撮った。そういえば、昨年も同様に別の人気(ひとけ)のない公園でぎょっとするようなものに出遭って写真を撮ったっけ、と思い出して、今後これを”ぎょっと物件”と名付けることとする。

因みにこれまでのぎょっと物件は下記(写真をクリックすると当該ページにジャンプします)。


2017/04/02

んねぞう

パープルフリンジ

昨日久しぶりに35mm F1.4のマニュアルフォーカスレンズを持ち出して写真を撮って来たが、帰って来た後に見返してみて、このレンズは明暗差の大きい構図で絞りが解放近くでパープルフリンジが目立つことを忘れていたことに気付いた。

しばらく天気が悪く、また旅行で荷物の制限があったりして使っていなかったために忘れていた。

全体 (1/4000Sec, F1.4, ISO200)

6d_17242

部分拡大

6d_17242-2

 

2016/11/13

んねぞう

 

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11 2016

んねブラとレンズ

昨日紅葉を撮り、んねブラに掲載した。荷物の制限で35mmフルサイズ機には標準ズーム(24 – 105mm)しか持って行かなかったが、広角側で、雲一つない青空を撮った写真で周辺光量落ちが目立ち、修正が必要だった。と言うことで、価格比較サイトで広角ズームレンズの評価、価格を眺めている自分がいる。

買わないけれどね

6d_17187

2016/11/06

んねぞう

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東京都写真美術館 杉本博司 「ロスト・ヒューマン」

10月15日に東京都写真美術館 杉本博司 「ロスト・ヒューマン」を観覧した続き。

2Fの展示室を対角線で2つに区切り、それぞれの三角形のエリアに、一つは廃墟となった映画館の写真、反対側には三十三間堂の写真を展示している。三十三間堂の方は説明文が一切なく、1回目に来たときは何のことかわからずに、写真そっちのけで広く空いたスペースに佇立している「光学五輪塔」を矯めつ眇めつ眺めていた。

一通り回って、また元の所に来た時に、係の人の説明で、三十三間堂の写真の展示であることを聞いた。

展示室の一角にベンチがあったので、そこに20分程座っていると、もともと人気(ひとけ)のないスペースに、ダウンライトの影を落としながら人が無言で静かにやって来ては立ち止まり去ってゆく、それが海岸に打ち寄せる波のように緩急を伴って繰り返される様が、実は写真の展示とともに、この人の動きも作者の意図したパフォーマンスで、この席に座っている自分がただ一人の観客ではないか、等と思って見る。

2016/10/23

んねぞう

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10 2016

生き物としての人類(3)

「猫」に関連して、関連する部分をもう一か所思い出した。碁石に関する部分。

Quote —-

いざ天下わけ目と云う間際に覗いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支えない。人間の性質が碁石の運命で推知する事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶の世界を、我からと縮めて、己の立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言に評してもよかろう。

—- Unquote

2016/10/19

んねぞう

 

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10 2016

生き物としての人類(2)

昨日掲題について所感を綴ったが、夏目漱石の「猫」に人間の自殺についての下りが載っていたことを思い出し、読み直して見た。

苦沙弥先生のサロンで、高等遊民のオールスターが集合して駄弁を弄している場面で、文明の進行に伴って人間の自意識が高まり、死に対する恐れによる神経衰弱と言う病気が発明されたが、研究の結果、死は避けられないものと言うことが分明になり、次に如何に死ぬかが問題となった。そこで、自殺者は皆独創的な方法をもってこの世を去るが、そういう知恵も勇気もない人間は巡査が慈悲のためにぶち殺してくれるようになる、というものだった。
この場面は実業家の金田の妻が使用人や金を使ってこそこそと水島寒月のことを調べ回っていることに苦沙弥が憤っていることから始まっている。

日本人も自分の自我と他人の自我の間の窮屈さに辟易しつつ生きて行かざるを得ないことを昔から飽きもせず言い続けている訳だ。

2016/10/16
んねぞう

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10 2016