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新型コロナウィルスと日本人

現在新型コロナウィルスの流行で、日本国内が大変なことになっており、政府も手探りで精いっぱいの対策を打ち出そうとしている。このウィルスがどのような感染の仕方をするのか、肺炎がどのような経過を辿るのか、病理的なメカニズムがわかっておらず、当然のことながらワクチンがない、どの薬が効くのかわからない、従って治療法も確立されていないという状況で、日本のトップクラスの専門家がそれこそ死に物狂いになって情報やデータを収集、分析し、仮設を立て、純医学的な見地だけでなく、国の経済・社会的(製造、物流、交通、雇用、消費、人の移動とか)要素も可能な限りモデルに組み入れつつ、予測し、検証し、そして感染者数の増加の抑制と国民生活のダメージのぎりぎりのバランスを取るべく政策を決めているというように思う。数学の問題と違い、解の数は無限だし、先々の予測が不可能なのでたびたび変更があるかも知れないが、一旦決まったら一丸となって進むしかない。私は視野の狭い、浅い見方しかできないので、上のような理解に基づいて、とにかく今は国全体として接触を避けるという方針に基づいて行動するしかないと思っている。これはいくつかの波を経て長期間をかけて収束に向かっていくことになるのだろう。

日本の、ある意味「緩い」緊急事態宣言と、ヨーロッパ諸国が敷いている強権的な外出制限の処置、それに対する感染者数、死者の推移を、この問題が落ち着いた後振り返って見てみると、面白い違いが出て来るのではないかと思っている。日本は特別措置法の制定にあたって、できるだけ「私権(私は初めて聞く言葉ですが)」の制限をせずに、自粛を要請する、休業を要請する、というスタンスだ。それに対して、ヨーロッパは罰金、刑事罰を動員して接触を制限しようとしている。この感覚の違いが興味深いと思う。

先般の東日本大震災の際に、秩序立った日本人の行動が海外で称揚された。当時私は地震発生の翌々日にインドに出張の予定だった。その時はまだ計画停電の措置は取られておらず、成田エクスプレスもフライトも運行していたので余震の続く中出発したのだが(余談中の余談だが、成田空港は当時毎月のように使っていたが、空港の通路、ロビーを問わず旅行者が大勢、配られたマットレスの上で毛布にくるまっているのを見たのは後にも先にもこの時だけだった)、デリーの拠点に出社した際に現地の新聞でも一面で報道されていて、ローカルのインド人がわらわらと寄ってきて、口々に日本人の秩序立った行動に感嘆の言葉を口にしていた。私もそれに乗っかって「日本人スゲー」と思うほどお人好しではないつもりで、避難区域での空き巣狙い、詐欺なども数多発生しただろうと思うが、それでも同規模の災害が別の国で発生した時に同様の光景が見られるだろうか。その底流には順番を守る、人のものを盗まない、これをみんなが守れば秩序が保たれるという暗黙の価値観があって現出していたのだと思うのだ。

その後9年の歳月が経ち、国内の貧富の差の拡大、ITの発達による個人の情報発信の機会の増大と個人情報保護に伴う自意識と全般的な権利意識の高まり、日本の経済競争力、技術力の低下、これによる若年層の雇用の厳しさの増大、閉塞感等が強まっているように見える。価値観の多様化も進み、「自分で考えて」行動するのは良いが、自由の履き違えを伺わせる行動もニュースで多く目に触れるようになった。上述したような「暗黙の価値観」も、今では「同調圧力」と読み替えられているのかも知れない。

ただし、地震や風水害発生のシチュエーションに対して、今回の状況は多少割り引いて考えねばならない点があるかも知れない。それは前者では当事者が明確な形となって現れる点と、今回のコロナウィルスは被害者・加害者がわからない点だ。後者はウィルス自体が目に見えず、自分の行動の帰結がわかりにくいため、自分の行動の軸足をどのように置くかが人によって違って来る。ここで各人の「想像力」が試されると思う。

上述の「面白い違い」というのは、以前の日本人の行動様式が保たれているのであれば、欧米よりも緩やかな規制によってはるかに少ない感染者・死者数という結果が出ることを期待してのことだ。今、日本人のメンタリティがどうなっているかによって、今回のコロナウィルスの対策の効果が決まって来るのではないかと思っている。

末筆ながら行政機関、専門家、医療従事者、そして国民生活を支える物流、交通、電力、通信、ガス、上下水道、ごみ収集、教育・保育、介護、生活必需品販売他関係者に敬意を表すると共に必死のご努力に感謝申し上げます。

2020/04/26
んねぞう

26

04 2020