東京駅から中央本線に乗車、山梨との県境近くの駅で下車してブラブラした時の写真。帰って見返してみると、折しもの天気と、出会った風景が一種異様な雰囲気を醸し出していた。そこで、勝手な設定で写真を構成して見る。
異界への入り口。これを潜ると、時空が現実世界から隔絶された世界に入り込み、戻って来れなくなるのだ。その昔、「こちら側」と「あちら側」の住人の間で微妙な思念の食い違いが生じた。これが時間と空間のずれを生じさせ、今や別々の時間軸と事象を有する世界に分離してしまった。しかし、完全に別の物理法則の体系を持つまでには至らず、無生物のハードウェアレベルでの可視性は残っている。
もう、すべての人が忘れ去ってしまったその昔、「こちら側」と「あちら側」を結ぶケーブルが敷設された、苔むしたトラフ。今もその信号、微弱なエネルギー、思念等は流通して、ほそぼそと機能している、そのおかげで双方の微妙な均衡は保たれているが、しかしそのことを知る人は既にどちら側にもいない。
路傍のユリもこの、言わば「思念の場」のギャップの影響を受け、異常な発達をしている。
「あちら側」に足を踏み入れる。人の気配はあるが、廃屋と、その前庭に立っている石塔が朽ちたまま放置されている。無生物の石塔は知覚できたとしても、生物としての雑草が生い茂っている様を知覚できたことについては、疑問が残る。何故ならば、人間を含む動物が知覚できないから。思念を持つものと、そうでないものの違いか?
廃屋。遠巻きに中を覗いて見ると、確かに人が生活している痕跡がある。人通りのない通りを歩くが、しかし常にどこからか見られているような感じがする。自分の、足に知覚される体重、手に持ったカメラの重さと慣性、地面のアスファルトの感触、頰を撫でる風の感触、眼に映る、雲の流れ行く様、直線は直線として感覚と一致する様、全てが「こちら側」と同じに知覚される。従って、ユークリッド幾何学、古典力学的な法則は共通のものらしいと思われる。しかし、私のような外来の者が及ぼす、現在の「こちら側」の力学では解明されていないレベルでの、微妙な場の歪みを、住人達は敏感に感じ取り、息を潜めて、その外来者を観察し、去るのを待っているようだ。私の目には廃屋、雑草、傾いた石塔、割れたガラス、段ボール、打ち捨てられた布団に映るが、これは私が外界から持ち込んだ「場」の力で事象が歪められたのであって、本来の住人から見れば、ごく普通の生活風景が展開されているに違いない。彼らには、私はどう見えているか、意思の疎通の手立ては最早失われている。
「あちら側」から還って来た。帰って来るまでの間に幾星霜の時間が経ってしまったのか、乗って来た車が植物に侵食されるがままに佇んでいた
■ スライドショー (HD BGM by Y8MD) ■
2014/07/19
んねぞう