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津軽三味線の精神性…バッハとの比較

私の車のカーナビにはSDカードに格納したmp3ファイルを再生する機能が付いている。昨日、車を運転していて、ちょっくらCorelliでも聴いてみんべか、と何気なくプレーヤーのスイッチを入れたら、案に相違して突然津軽民謡の、女性の朗々たる歌声が流れて狼狽えた。そのSDカードにはバロック音楽以外にも私のお気に入りの音楽が入っているので、同様にお気に入りの津軽三味線に関連した曲が入っているのは何もおかしくはなく、多分前回再生した時にこの場所で再生を切ったために、今回ここから再生が始まっただけの話である

耳と心がバロック音楽を聴くようになっていたところに突然津軽三味線が飛び込んで来て、これに対応すべく私の錆び付いた脳内スイッチのレバーをぎしぎしと切り替えているうちに、その両極(バロック音楽と津軽三味線)の違いが朧気ながら浮かび上がって来て、次のような事を思った


津軽三味線は、民謡の伴奏だった三味線を、津軽三味線の創始者とされる神原の仁太坊やその後継者達が独奏楽器として確立させようとして格闘してきたものだ。当時の主要な聴衆は農民で、民謡の伴奏としてしか三味線には期待していなかったので、独奏楽器として出現した三味線に対して「三味線、降りでまれ!」(引っ込め)、「カラスだな」(民謡歌手と比べて抑揚のない演奏だなと言う意味か)と散々な言われようだった。これに対して、演者達は、何とかして聴衆の度肝を抜いてやろうと切磋琢磨して成立したのが津軽三味線だ。勝負は音量とテクニックで、「この野郎」、「なにくそ」と言う津軽人一流の頑固、意地っ張り、派手好き、進取の気性が作用して現在の叩きつけるような奏法の津軽三味線が成立した

以上が私の津軽三味線成立に関する大雑把な理解だ。話が飛躍するようだが、タイトルに書いた精神性の話になると、バッハを始めとするバロック音楽の宗教曲に見られる精神性の観点において、私は津軽三味線にその必要性を認めない。なぜならば、津軽三味線は虐げられた階層の人間が、自分の生存をかけた精一杯の叫びであり、聴衆に対する「なにくそ!」、「この野郎!」、「これでどうだ!」と言う挑戦であるからだ。まさに今日一日の露命を繋ぐに足る食べ物を得られるかどうかと言うレベルからくる叫びなのだ。語弊を恐れずに言えば、人間の原罪とか哲学的、宗教的な乙に澄ました議論とは無縁であり、聴いている側としても津軽三味線はとにかく相手の度肝を抜いて食べ物の恵みを得る音量、激しさ、テクニックが全てで良いと思っている

ただし、その演奏の陰に、私は津軽の自然風景、人々の暮らしと言うものを見てしまう。地吹雪の吹きすさぶ冬、一気に花咲く春、稲が青々と育ち、風が田畑を吹き渡る夏、実りの秋を迎え、岩木山を中心とした神域で開催される祭り、そしてそういう中で息づく人々の暮らし。私は津軽生まれでもなく、育った訳でもないのだが、東北南部の生まれで、津軽人と多少職場で付き合ったことがあり、またふとしたことで津軽三味線に触れることがあり、これが縁で何度が冬の津軽を訪れたり、本を読んだりして、徐々に私の津軽三味線観が形成されてきた。それではお前の見る「津軽の風景」とは何かと聞かれれば、写真家 小島一郎(1924-1964)の写真集「小島一郎写真集成」を挙げたい。そこには、四季折々の津軽の風景、人々の生活が、自身も生まれ育った土地としての主体性をもって描写されている。演奏の影に私が勝手にその風景を思い浮かべているのだろうと言われればそれまでだが、しかしその演者が生まれ育ってきた「津軽」と言うものが背景にあったからこそ演奏、曲そのものが成立し、その裏には共通する郷土愛、もっと言えば原風景の共有があることは誰にも否定できないと信じる。その基盤の上で津軽三味線弾きは津軽人の魂に訴えて来た。私はその原風景を上述の小島の写真に見ている。また、私自身もその欠片を求めて数回カメラを抱えて津軽を旅した。このことは文芸同人誌「澪」でも数回フォトエッセーとして発表もしているし、私の写真blog(んねブラ)にも掲載している

このブログのどこかで書いたと思うが、現在の津軽三味線はその存在の基盤が揺らぎつつある。「揺らぐ」と言う言い方が良くなければ、変わって来ていると言っても良い。今、津軽三味線を弾く人、習っている人は上に書いたような乞食同然の暮らしはしておらず、生活の基盤がしっかりしているからこういうことができるのであって、間違っても神原の仁太坊のように天然痘で視力が奪われ、三味線しか糊口を凌ぐ術がなく、あまつさえ渡し船の船頭の息子と言う、社会から蔑まれる境涯である訳がない。そのような点から、現代人の奏でる津軽三味線と、当時の三味線弾き達のなりふり構わず「叩く」三味線とは一線を画するものだと思う。本来の津軽三味線は、上述したように、物理的に食べ物(露骨に言えば米の一合、二合)を得るための「叩き」三味線だった。それが現代に生きる日本人の琴線に触れ、全国的に、時には海外公演で熱狂をもって迎えられるに至った。それは喜ばしいことである反面、その時から津軽三味線は「津軽」と言うルーツから乖離を始めた。津軽に生まれず、生活してその自然や人々の生活に触れたことのない演者が増え始めた。もちろん、津軽三味線に魅せられた人達が演奏しているのだから、その精神は受け継がれているのだろうが、その根底で確実に変化が起きていると思わざるを得ないのだ

これが良い、悪いというのではない。私の好きなバロック音楽の勃興期には、それまでのルネッサンス音楽の愛好家たちからはそれこそ「バロック」の本来の意味である「歪んだ」という形容詞が付与されているから、バロック音楽は当時「外道」と思われていたに違いない。このような歴史的視点から、これからの津軽三味線は、地縁を離れて飛躍するという未来もあると思う。ただ、私のような固陋な人間は、本来の津軽三味線の由来に立脚して、少し距離を置いて見て行きたい、そう言うことである

今後の津軽三味線の発展の過程の中で、或いは奴隷として北米大陸に連れて来られた黒人の間から発祥したジャズのように広まって行き、普遍的なメッセージ性、精神性を獲得するということも考えられるだろう。だが、それが実現したかどうかは私が斃(くたば)った後に分かることだろう

津軽三味線発祥の地の記念碑

2025/01/03
んねぞう

古いCompact Flashカード(1)

何かの必要があって、私のガラクタの中を探していたら、Copact Flashカードが出て来た。こんな古いカード何に使ってたっけと思った。幸いなことに私の今使っているガラクタカードリーダにCopmact Flashのスロットがあったので突っ込んで見た

中を覗いてみると1998年~2000年の間に行っていた、アメリカを始めとした海外出張の期間のメモが残っていた。大半は自分のアメリカ紀行で、その時の体調、見聞きしたこと、乗った飛行機や宿の事などだったが、その中にちょっとだけ仕事のMailやメモも残っていて、そういえばあの時、と一時感慨に耽った。残してある文面を見ると、その時は流石にばりばり仕事をして、文章の上ではてきぱきと部下に指示を出しているように見え、また、英語で書いたアメリカの会社の人達との打ち合わせのメモも残っていて、ほう、あの時もこんな英語書いてたんか、と我ながら驚いたりした

前に書いた覚えがあるが、一時私は会社のある事業部のIT部門の課長をしていた。この期間はそうなる直前の時期だと思われる。しきりに海外との仕事のITによるコラボレーションの調整をしていて、相手先に行って打ち合わせをした後、これまで対応していたメンバから、お前が来たおかげで相手の態度が和らいだということを聞かされたということが書いてあった。ああ、そういうこともあったなと、胸を一陣の爽やかな風が吹き抜け、そして今の自分との落差を思った

2024/03/22
んねぞう

芸能/芸術の発祥地について-津軽三味線に思う

私の所属する文芸同人誌「澪」の第19号(3月発刊予定)の原稿を先日提出した。第15号から連続して、津軽を題材としてフォトエッセーを発表させて頂いているが、その中で津軽三味線について触れることが多かった。

津軽三味線は津軽の風土、それが作り出した津軽人の独特な気質と相まって、「神原の仁太坊」という、津軽人としての気質を人一倍備えた人間が、失明という逆境に抗って、自身の芸術的才能によって創始したものを、彼に続く弟子達が辛辣な聴衆と火花を散らしながら、民謡の伴奏から独立したジャンルとして確立してきたものと理解している。それが、これまでと全く違う奏法、興行の仕方の三味線芸術成立の素となった。当然、その芸術は、「津軽」「津軽の気候風土」「津軽人」というものが色濃く投影されて成立しているものであり、特に津軽三味線は「楽しむ」ためではなく、「生きる」ためのものであり、盲人という、当時を生きる人間にとって強烈なハンディを持った人たちが生きて行く数少ない手段の一つであったということに注意しなければならない。冬の雪降るさ中、晴眼者、多くは妻、子供、あるいは弟子に手を引かれながら門付けをして少ない報酬を得て旅をする、また演芸会では聴衆の容赦ないヤジに耐えながら演奏をする、そうしてわずかな生活の糧を得て行く中で数えきれない人々が命を落としていったことだろう。津軽の三味線弾きは、「なりたくて」なったのではなく「それしかなかった」というDesparateな選択でしかなかった。そういう状況に追い込まれ、生きて行くことは、如何に演奏で聴衆(多くは農民)の度肝を抜いて、民謡の歌い手でなく伴奏とされている三味線に目を向けさせるかという「闘い」であった。

そのような経緯で成立した津軽三味線だが、現在は「……流」という流派が派生し、家元制度に基く津軽三味線教室も盛んだ。また、三味線の演奏者も多く輩出し、メディアへの露出も広がっており、中にはスター的な演奏者もいるようだ。しかし、そのような商業化と共に、その中心は東京に移りつつあり(もちろん、津軽三味線の本拠地である津軽に留まって活動をしている演奏家も多く存在すると思う)、だんだんソフィスティケートされつつあるように感じる。芸術の進化の形として、私はそれがいけないと言いたい訳ではない。芸術は聴衆を心地よくさせ、感動を与えるものであって、その求めるものが変わって来たら変わって当然だと思う。そうでなければその芸術は見捨てられてしまうから。しかし、私の中の「津軽三味線」は、長い地吹雪の冬、雪解けで花々が一斉に咲き乱れ、鳥々が鳴き交す春、収穫の喜びに村が湧きたつ秋、そういう自然と生活、津軽人が喜怒哀楽をぶつけ合う坩堝の中で、三味線で「生きる」こと、もっと生々しくいえば「食う」ことに、それこそ命をかけた三味線弾きの叩きだしたもの、というものである。だから、現代の津軽三味線は、私の中では「津軽三味線」ではなく、「第二次津軽三味線」という、明確な線が引かれている。私はこれを他人に押し付けるつもりはない。私の理解を披歴しているだけであり、第二次津軽三味線は堕落している等と言う積りもない。しかし一面、これは津軽三味線だけの問題ではなく、小島一郎の写真のように、津軽に根差した写真で中央に進出して活動した結果、その基盤となる津軽から乖離して行くという共通のジレンマがあるように思えるのだ。繰り返しになるが、津軽三味線が津軽の基盤から離れて行くのをいけないと言っているのではない。

これまで「澪」のフォトエッセーを書く度に津軽三味線について考えてきたが、このような経路を辿って来た帰結として、私は現代の津軽三味線とは多少の距離を置くことになるだろう。

津軽三味線の成り立ちについて数少ないながらも何冊かの書籍を読んで、上記のような結論を持つに至った。その中で私の知識の中核をなした本は,「 定本 弦魂津軽三味線」 第3刷, 大條 和雄,弘前市, 津軽三味線歴史文化研究所, 2009年7月である。

著者の大條氏は2020年4月に逝去されたと聞く。ご冥福をお祈り致します。

岩木川の神原の渡し跡を示す石碑と、大條氏の揮毫による仁太坊の石碑。今は神田橋という立派な橋がかかっている

「澪」の津軽編は、今号か、次の20号で終わりにして、次はインド物を計画している。

2022/02/02
んねぞう

津軽旅行記

真冬の2月に、何回目かの津軽に出かけた。今年は現地の雪が少なくやきもきしていたが、1週間前になって雪が積もり始めてくれた。

今回の旅の目的は3つ

  1. 写真家 小島一郎の幻影を追うこと
  2. 五能線沿線の海岸を1か所で良いから歩くこと
  3. 津軽三味線の始祖 仁太坊の生まれた場所を訪れること

写真家 小島一郎の幻影を追う

津軽を代表する写真家 小島一郎の足跡を辿って、車力、十三湊を歩き、津軽の冬の景色を撮る。昨年初めて小島一郎の写真集を見て、津軽の感じ方に間違いはなかったように思っている。小島の写真の特徴は、雲、そして雪の描写にあると思う。雲は覆い焼きの技法によって劇的な表情を見せ、雪は、束の間顔を見せた陽光によって、橇跡が硬くなって鈍く光を反射している描写が私には強く印象に残った。また、吹雪の中、角巻を纏って歩く婦人、同じく吹雪の中で佇立する電柱で一つ灯っている裸電球。これらの残像を脳内に保ち、 「また来たじゃ」と心の中で呟きながら カメラを握って歩いた。歩いたとは言ったが、限られた時間内で鉄道の便もないので、レンタカーを駆って歩いたのだが。小島の時代からすでに60年の歳月が経ったので、当時そのままの景色が残っている由もないが、幸い吹雪いてくれたので、それらしい雰囲気にはなったと思っている。

来島海水浴場
アイスバーンの道を抜けて開けた駐車場に止めた車から降りると、よろけそうな風にあおられる。見る見る間に露出した顔と手から体温が奪われ、手はかじかみ、口は回らなくなって、「まみむめも」は「もぁむぅぃんむぅむぅぇんむぉ」となってしまう。斜面に生えている草は風によって完全に斜面に撫で付けられてしまっている
十三湊の凍結した明神沼
しゃりきサンセットドーム近くの海岸にて
スーパーで見つけて買って来た地酒。十三湊は昔、安藤(東)氏の拠点だったことに因んだのだろう

五能線沿線の海岸を歩く

ここでは、五能線の深浦駅で下車し、行合崎を目指した。

五所川原駅に入線して来た列車
雪の上に落としたわけではない。海岸を歩くと横殴りの雪がこのようにレンズにこびりつく。溶けないので、水となってレンズの中に侵入しないので助かる。後でこの写真を見て、手振れ補正機能がOffになっていることに気が付いて慌てた。しかし雪の中では手振れ補正が必要なほどシャッタースピードを落とす必要はなかったので一安心
駅を出て国道を北に歩く。現地に着くまでは、国道を歩けるか心配だったが、歩道の上に積もっている雪は浅く、楽に歩くことができてほっとする。東北南部の豪雪地帯では、車道の除雪に手いっぱいで歩道まで手が回らず、やむを得ず車道を歩かなければならないことがあるが、身の危険を感じる。もっとひどいときは、雪が解けた水を車が跳ね上げて走るので、とても歩けた状態ではなく、泣く泣く目的地に行くのを諦めたこともある
今日の晩はこの地酒。一昨年竜飛に来た時も飲んだな

津軽三味線の始祖 仁太坊の生まれた場所を訪れる

これが今回の旅の最大の目的である。岩木川の畔、神原に生まれた仁太坊を記念した石碑を目指し、その場所の雪を踏み、風に吹かれること。

これがその石碑。この近くで仁太坊が生まれ、そして津軽三味線が発祥したのかと思うと、感慨深い
お土産に買った津軽弁のピンバッジ。「No.」のも欲しかったがなかった。地元の方に聞いたら「ま(ぃ)ね」と言うらしい

この時の写真はんねブラに掲載しました

車力-Feb.2020:写真家 小島一郎の幻影を追って

深浦-Feb.2020

金木-Feb.2020:津軽三味線の幻影を追って

2020/02/10
んねぞう

太宰の「佐渡」について

前稿の佐渡旅行記の冒頭、「私は太宰程の感受性はないにしろ、死にたくはないがその淋しさというものを体験してみようと思う。」と書いた。実は、その太宰の言う淋しさとは何かについて理解が不十分なままであった。旅から帰って、作品を読み返しつつ、考えたのが本稿である。読んでいただける場合は下の「Read the rest of this entry」を押して下さい

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佐渡旅行記

昨年の2月、津軽の龍飛岬を旅した。それは、津軽三味線を生んだ津軽人を育んだ津軽という土地、気候の最もExtremeな場所として、また真冬の日本海、強風と荒波の海岸、岬に身を置きたい欲求に駆られてのことだった。
今年も、人のいない、荒涼とした景色を求めて、佐渡を目指す。
太宰治の「佐渡」では「佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。」と書かれている。また、「何しに佐渡へなど行く気になったのだろう。」等、ひどい言われようである。であるが、わざわざ作家が短編ながら作品をものしているからには、何も存在しないと言う淋しさではなく、太宰をして「死ぬほど 淋しい 」と形容させるものがあるに違いない。それが太宰の琴線に触れないにしても、あるいは不協和音を立てたにしてもだ。私は太宰程の感受性はないにしろ、死にたくはないがその淋しさというものを体験してみようと思う。

(かなり長文です。読んで下さる方は下の”Read the rest of this entry →” を押して下さい)

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02 2019

私がインドで出会った人々

2009年から数年間、インドに足繁く通った時期があり、滞在中、休日ともなるとカメラを担いで何処かへ出掛けていた。見返して見ると、インドの人の写真が相当あったので、インドの人専用のブログを立ち上げた。

People I met in India

多分300人以上が写っていると思う。

 

2008/08/19

んねぞう

 

19

08 2018

第三次津軽旅行

3日ほど津軽線沿線を旅行して来た。主な目的地は竜飛岬。

2014年に三厩を訪ねて以降、いつか竜飛岬に立ってみたいと思い続けていた(んねブラ 風の強い街参照)。

今回、奥さんの強い後押しを貰い、竜飛を訪れることができた。途中、三厩、蟹田も再訪し、写真に収めてきた。

三厩再訪 – Feb. 2018

蟹田再訪 – Feb. 2018

竜飛 – Feb. 2018

その際の、写真以外のあれこれ。

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02 2018

ぎょっと物件

私の運営している写真ブログ”んねぞうがカメラを持ってブラブラ – んねブラ“は写真家三井光一氏の写真ブログ “シグマを持ってあちこちをブラブラ。写真家・三井”サスラウ”光一が綴るフォトダイアリー” に触発されたものだが、氏はシグマのカメラがその描写を得意とする被写体を”フォビオン”物件と称している。

昨日、私は人気(ひとけ)のない公園に行って写真を撮って来たが、その中でぎょっとするものに出くわして写真を撮った。そういえば、昨年も同様に別の人気(ひとけ)のない公園でぎょっとするようなものに出遭って写真を撮ったっけ、と思い出して、今後これを”ぎょっと物件”と名付けることとする。

因みにこれまでのぎょっと物件は下記(写真をクリックすると当該ページにジャンプします)。


2017/04/02

んねぞう

んねブラとレンズ

昨日紅葉を撮り、んねブラに掲載した。荷物の制限で35mmフルサイズ機には標準ズーム(24 – 105mm)しか持って行かなかったが、広角側で、雲一つない青空を撮った写真で周辺光量落ちが目立ち、修正が必要だった。と言うことで、価格比較サイトで広角ズームレンズの評価、価格を眺めている自分がいる。

買わないけれどね

6d_17187

2016/11/06

んねぞう

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