佐渡旅行記

昨年の2月、津軽の龍飛岬を旅した。それは、津軽三味線を生んだ津軽人を育んだ津軽という土地、気候の最もExtremeな場所として、また真冬の日本海、強風と荒波の海岸、岬に身を置きたい欲求に駆られてのことだった。
今年も、人のいない、荒涼とした景色を求めて、佐渡を目指す。
太宰治の「佐渡」では「佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。」と書かれている。また、「何しに佐渡へなど行く気になったのだろう。」等、ひどい言われようである。であるが、わざわざ作家が短編ながら作品をものしているからには、何も存在しないと言う淋しさではなく、太宰をして「死ぬほど 淋しい 」と形容させるものがあるに違いない。それが太宰の琴線に触れないにしても、あるいは不協和音を立てたにしてもだ。私は太宰程の感受性はないにしろ、死にたくはないがその淋しさというものを体験してみようと思う。

(かなり長文です。読んで下さる方は下の”Read the rest of this entry →” を押して下さい)


■ 1日目

2月のある日、私は上越新幹線「とき」の2階に席を取った。東京を出発して高崎を過ぎるとトンネルの連続で、景色がほとんど見えないのが不満だ。仕方がないので、民俗学者の柳田國男の「北小浦民俗誌」を読み返す。長岡近くに来て、いきなり吹雪の雪景色が広がって、テンションが上がる。それは良いが、このような天候のせいで新潟港からのジェットフォイルの運行が未定とある。なかなか気を揉ませる展開である。新潟駅に着いて、タクシーで佐渡汽船の乗り場まで行き、運行状況を確認したら、11:30新潟港発のジェットフォイルは欠航が確定していた。運航しているフェリーは12:35まで待たなくてはならない。乗り場はがらんとしているので、なおさらハイシーズンでの混雑が想像される。

エレベータで8Fまで行き、そこから港を眺める。海上保安庁の巡視船が係留されている。昨今の北朝鮮情勢で大変ですね、と独り勝手に労をねぎらう。沖まで伸びている突堤に目をやると、なるほど日本海の荒波が突堤を超えて飛沫を上げている。こちらはビルの展望窓の中から見ているのだが、建物をかすめて通るびゅうびゅうと言う音が聞こえてくる。

出港前に腹ごしらえのために待合室のある2Fに降りて、レストランに入って中華そばを頼む。この店を選んだ理由は、特に評判が良いとかの事前情報があった訳ではなく、外から中を見ると設えが昔の喫茶店のようなノスタルジーを感じさせるものであったから。

初めての土地で、私が特に興味を持つような食べ物がない時は取り敢えず普通の中華そば、即ち所謂醤油ラーメン(大盛)を頼む。それが唯一、私が辛うじて評価の軸を持つものだからだ。

(あまり味がなかった)

乗船時間になると、どこからともなく人が集まって来た。出航の時に、銅鑼が鳴らされるのを初めて聞いて、今までテレビでしか見ていない状況に、ほえー、と少し感動した。荷物を船室に置いて、早速一番上の甲板に出る。出航に際して、始めにスクリューからの水流が岸壁方向に向けられ船体が岸壁か離れるにつれ、岸壁にいる係の人がやおら先程外されたロープをまた岸壁の別のペグに掛けたりして、どうやら船体を沖に向けようとしているようだ。その様子を興味津津で見ているうちに、船は信濃川の河口に向けて走り出した。カモメが追いかけて来る。強風に煽られて飛びにくそうだ。ハイシーズンならば誰かが餌をやるのだろうが、生憎甲板には私独り、残念。突堤が途切れる所まで来て、急に揺れが酷くなって来た。考えてみると、私はこれまで遊覧船程度の船にしか乗ったことがなく、たとえ数10km程度であろうとも外洋に出るのは初めてである。そう思うと急に、青函連絡船沈没事故ではないが時化の日本海でフェリーが沈没して海に投げ出されたら、この甲板に設置されている救命ボートに乗るのだろうか、全員乗れるのだろうか、海に投げ出されたらこんな冷たい海水に何分も耐えられないなとかいろいろ不安が湧いて来る。初めて体験する者特有の不安であり、昔初めて飛行機に乗るときも似たような不安に駆られたことを思い出し、気持ちが落ち着く。

波が荒く、何かに掴まっていないと立っていられない状態が続く。船体が波にダイブするとどどーんと言う衝撃とともに船首からの波しぶきがかかって来た。口の周りがしょっぱい。こんな大きな船体がきしみもせず、撓みもせず(実際は撓んでいるのだろうが)、果敢に波をかき分けて進む船に頼もしさを感じる。こんな感慨を抱くのは嘗て機械工学を学んだ人間としてズレテイルと言われるかも知れないが、それだからこそこれまで人間が築きあげて来た技術と経験の蓄積に思いが行く。余談だが、佐渡に上陸した後、小木にある千石船を見学した。あのような船で瀬戸内から新潟、津軽、北海道を航行していた様子を想像すると、「板子一枚下は地獄」という言葉が胸に迫って来る。被っている毛糸の帽子が風で吹き飛ばされないように気にしつつ、構図の水平、垂直もへったくれもなく、レンズに潮が付いているのに気が付く余裕もなく 及び腰で撮った一枚がこれ。

太宰は船に乗るなり不貞腐れて船室で毛布をかぶって寝ようと試みたが、私はそれどころではなく、物珍しさに揺れる船内をうろうろしている。そうこうしているうちに「佐渡」にあるように、島が見えてきたが、その沿岸をかなりの間航行して、無事両津港に着岸。ここからはレンタカー。

佐渡について、出発前に少し調べた後、今回の旅では2つを目標として設定した。一つは二ツ亀、大野亀と言う、佐渡でも最北端の地点に立つこと、二つ目は宿根木の路地を歩くこと。レンタカーを受け取り、まずは内海府海岸沿いに県道45号線を北上する。佐渡は太宰が言うように「工」の字を逆さにしたような形をしており、その北西側の山地の北半分の南東部を内海府、反対側の北西部を外海府と言う。その境目は、柳田國男の「北小浦民俗誌」によれば願(ねげ)の「佐比のかはら」と言う地点とされている。今は「賽の河原」と呼ばれているようだ。今日は陽のあるうちにこの二ツ亀、できれば賽の河原まで訪れたいという目標を立てて車を走らせるが、どうしても海岸の光景が素晴らしく、少し走っては車を停めて写真を撮り、また少し走っては写真を撮りと、捗が行かない。

柳田國男の著作の舞台であった北小浦と言う集落もあった。この漁港で車を降りて少し歩いて見る。 「北小浦民俗誌」 では、12月から翌年3月の間は「イソネギ」と言う、小舟を漕ぎ出してタコやアワビ、サザエ、ナマコ等を獲る漁撈を行っていたと書かれている。この著作が刊行されたのは昭和24年とのことだから、それからでも既に70年が経過し、漁業技術は進歩していて、当時の姿はもう観光でしか見られないのだろう。県道の沿線は数kmと離れることなく漁港があり、佐渡の海の豊かさが伺える。

映画「喜びも悲しみも幾年月」で有名な(見ていないが) 弾埼の灯台に寄り、目的地の二ツ亀を望む。この時点で既に午後5時を過ぎている。あたりはかなり暗く、カメラが自主的に適切な露光になるように調節してくれた。

二ツ亀は、夏は海水浴場となるらしく、駐車場が整備されている。カメラと、もうすでに手持ちでの撮影は無理なので三脚を抱えて強風の中、階段を降りて行く。海に面しているホテルは冬季休業、当然ながら誰も人はいない。よしよし。かじかむ手でカメラをセットし、シャッターを切る。露光5秒。暗さのためカメラのオートフォーカスは時々合焦を諦めそうになるのを、また電池は低温のため残量警告を出しているのを叱咤激励し、数枚の写真を撮って、今日のところは撤収。

今夜の宿は相川に取ってある。後はひたすら外海府海岸を南下して宿に向かうのみ。県道45号線を走るが、集落を通り過ぎる時以外街灯もなく、試しに車のライトを消して見たら 桎梏の闇。 特に右側は日本海に落ちる崖かも知れないという緊張感がある。大野亀、尖閣湾等の脇を通過したはずだが、暗かったのと、雪が降り出したりしてまったくわからなかった。これからの楽しみだ。


■ 2日目

2日目は宿根木を目指す。この集落は、吉永小百合がモデルとなっているJRのポスターの背景で自分的に有名となった集落であり、昨年9月に訪れた琵琶湖北岸の菅浦集落同様鄙びた昔ながらの景観が保たれている。今の時期観光客もいないだろうと期待。雪も雨も降らず、物足りない天気の中車を走らせる。一体に佐渡の人達は運転マナーが良く、速度超過もせず、割り込みなどもしないので快適だ。途中、真野湾に面した漁港で、穏やかな水面を撮る。

県道を進んで行くと、倉谷と言うところで大草鞋が掛けてあるのに出くわした。司馬遼太郎の「街道をゆく」にあった大草鞋だ。その由来について、引用させて頂く。

かつての稲作農村というのは、自給自足能力が高い上に、共同体としての結束力がつよく、そのぶんだけ閉鎖的で、例えば以前の南ヴェトナムの農村では、
    — 王権といえども 集落 むら の垣は乗りこえて来ない。
とさえ言われて、古代部族国家の匂いをつよく遺していた。

(中略)
ともかくも農村にとっては外部ほど呪わしいものはない。見えざる「外部」としては、疫病もある。それらはみな村道をつたってやってくる。「道切」というのは、村の入り口にある樹木などに 注連縄 しめなわ を張り、その下に巨大なわらじをぶらさげて、
    — この村にはこんな大草鞋を穿く大男の荒神がいるぞ
ということを誇示しておく呪術なのである。

(司馬遼太郎著 街道をゆく 10 羽州街道 佐渡のみち 朝日新聞出版)

はたしてこの大草鞋が現在も外部を拒絶するという意識で掛けられているのだろうか。農村の長年続いた共同体意識が今も続いていて、道路が整備され、車も普及して行き来が自由になった今でも、実は皆他所から持ち込まれるものはまず拒絶する、余所者はまず排除する、と言う基本的心の傾きを持っているのではないか。そして、ここで道端に車を停めて写真を撮っている自分も、立ち去るまでどこからか誰かによって警戒の目で見られているのではないか、等と考えて見る。こう考えるのも、実は自分自身がそのような閉じた、臆病な心を持っているからなのだろう。

1652年に発生した小比叡騒動で知られる蓮華峯寺に立ち寄る。成程司馬遼太郎の「街道を行く」にあるように、擂鉢状の土地にある。紫陽花の季節には見事な花が咲くと言うが、この時期枯れた紫陽花が曇った空の下静かに佇んでいる。古刹の名にふさわしく、重要文化財等の建物が広い境内に点在しており、通路、階段を上り下りしながら見て歩く。八祖堂、客堂、護摩同、金堂、小比叡神社、等すべてが素晴らしい。特に私は小比叡神社の苔むした石造りの鳥居が好きだ。古びた山道の石畳や、境内に立つ古木と相俟ってしっとりとした、潤いを感じる。小比叡騒動に加担した当時の住職快慶の供養塔もある。 辻藤左衛門がこの寺に籠城することを決めた際、快慶に、寺に迷惑をかけるのでどうか立ち退きありたいと懇請した際に、「立退くとは、何処へ。愚老に覚悟なしと申されるのか」等と言ったという(前掲司馬遼太郎著 「街道をゆく」より)。当時の戦の雰囲気、緊迫感がどのようなものかわからないが、最後は獄門となった訳だから、命を懸けた戦いがここで行われたことに粛然とする。

金堂
小比叡神社

当日の最高気温は2~3℃。杉の葉が閉じ込められたまま凍った手水鉢

ここで大分時間を費やしたが、立ち寄って良かった。佐渡の歴史の彫りの深さを感じた。

それでは宿根木にGO!

宿根木に着いて、早速駐車場に車を置いて路地を歩き、立ち止まり、かつ戻り、写真を撮る。景観保存されている区域は限られているのだが、水路を伴った路地、幅1mもなさそうな路地、苔むした石畳の路地、いずれも迷路のようになっていて、ミステリー感と鄙びた感じを満喫しながら過ごす。中を歩いているのは、ごく少数の団体の観光客と少数の個人客。これらの人達と出くわさないように歩くのに苦労しない。快適だ。

この三角家の撮影に吉永小百合が訪れた時の騒ぎは如何ばかりだったかといらぬ想像をする。特に私は吉永小百合のファンと言う訳ではないが、昨今のアイドルと比べるとその清楚さが非常に好ましい。20年以上前、会社の上司が早稲田大学の出身で、学生時代に本人がキャンパスを歩いているのを見て、「オーラが凄かった、 天はニ物を与えずと言うが、与えちゃったんだな、これが」と言っていたのを覚えている。

鄙びた集落とは言っても何軒か食べ物屋さんがあり、運良く営業していたスパゲティ屋さんに入る。ちょうど団体客が入って、少し時間がかかると言うので、注文だけして、時間が勿体ないのでその間路地を歩く。

路地をくまなく歩いて堪能した後、一旦海岸に出て、石切り場を目指して歩く。岩場だが、今まで歩いたことのない岩相で、固い角ばった石が、火山灰が固まったような中から顔をを出していて、足を載せるとぼろぼろと剥げてきそうな感じがするが、実際はそうでなく、固着している。そういう意味では足元が滑らずに良いのだが、石の角が靴底を通しても足の裏を突いて来るので、少し痛い。このような岩場のなす景色は、何となく人類が滅亡した後の地球、と言う禍々しいイメージを想起させる。

海岸をずんずん歩いた先の石切り場の先の岩場に腰を下ろし、買って来た缶コーヒーを飲みながら、ぼーっとする。

しばらく過ごした後、やおら腰を上げて、集落の方に向かって戻るが、帰りは途中の津波避難路を通って県道に上がり、集落に向かって歩き出す。

途中、小木民族資料館と言うものがあったので、見学する。中には千石船の実物が展示されており、実際に中に入ることができる。この船が、昨日フェリーで越してきたような荒波を超えて帆走する様子を想像するに、ますます「板子1枚は地獄」という言葉がリアリティを帯びて響く。それとともに、木材と少量の金属でこれだけの剛性を持つ構造体を設計、製作する能力、これを最初に試して荒海を航海した人達、それらに感嘆の念を禁じ得ない。人間って凄いなあ、と月並みだが正直な感想。

隣接した民俗資料館もまた良い。良いと言うのは、その建物が昔の小学校の校舎を転用したもので、昭和に小学校時代を過ごした私にとっては非常に懐かしいものであったから。板張りの廊下、職員便所、うん、玄関の近くにあったよな、廊下を走って良く叱られたっけ… どちらも文字通り客は私一人、貸切状態。

資料館が午後5時で閉館するのを潮に退出し、日没までの時間を潰し、再度集落に戻る。今度は三脚付。俄雪が降ったお陰で地面がしっとりと濡れて、電球色の街灯の光を柔らかく反射している。下の写真は、F5.6、露光30秒。
この集落はテーマパークではなく、実際に人が住んでいる住宅も多いため、できるだけその人たちの生活の邪魔にならないように心がける。

寒さも厳しくなってきた。そろそろ引き揚げよう。ありがとうございました。宿根木の集落、観光地然としていないところが良かった。しかし滋賀県の菅浦よりは知名度があると思われるのに、土産物屋の1軒もないのは、シーズンオフだからか。ハイシーズンになれば状況は一変するのか? わからないが、できればいつまでもこの姿が残って欲しいと願う。


■ 3日目

旅の3日目、今日は帰らなければならない。朝7時半頃車をスタートさせる。しばらくして、車内灯が点き放しになっているのに気が付き、ぎょっとする。昨夜宿に着いた時に荷物の整理をするのに車内灯を点け、降りる時に消すのを忘れたようだ。それなのに良くエンジンがかかったものだ。昔の車だったら、当然バッテリー上がりでセルスターターは回らなかった。今はコンピュータをはじめ電装品が増えたせいで車内灯如きではバッテリー上がり等はしないのかも知れない。朝車に乗り込むときに、この車の周りに足跡が付いているのを見たがこれはひょっとして宿の人が心配して見に来てくれた跡なのかも知れない。

北沢浮遊選鉱場跡。私の好物、廃墟、廃工場。昨夜の雪がうっすらと積もっており、構内には誰の足跡もない。ここは 撮影の順番を良く考えて、余計な足跡が写らないようにしたい。これまで断片的な写真でしか見たことがなく、その全体的な配置がわからなかったが、全容が掴めた。調べて見ると、浮遊選鉱法と言うのは細かく砕いた鉱石を水と油性溶液を混ぜたものに入れて撹拌して鉱物を浮かび上がらせる方法とのこと。してみると、このプロセスは斜面の上から下に流れて行くものと推察されるが、実際にどのように行われていたのか、興味をそそられる。

ある意味神殿、あるいは墓場のようだ。考えて見れば人類の珍重する貴重な金を生み出す神聖な神殿だ。そして今はその人類の欲望の跡を示す墓場だ。(本人はうまいことを言ったと思っている)

墓場、いや遺構を後にして、いよいよ今日は外海府探訪だ。県道45号線をひたすら走るが、海岸の景色の変化が素晴らしく、ひどいときには1kmも走らぬうちにまた車を停めて、と言うことで埒が明かない事夥しい。でも仕方がない。

道中曇ったり、薄日が差したりしたが、大野亀までの後半は本降りの雪となった。パウダーシュガーのような雪を被った険しい岩々が鮮やかに目に映る。

途中尖閣湾と言う名称の場所があるが、実は尖閣湾と言うのは 姫津から北狄まで約3㎞の海岸に広がる5つの小湾の総称なのだそうだ。カーナビで「尖閣湾」と入れると観光施設に誘導されるが、実はそこに到るまでの風景が宝だ。トイレに入るために観光施設の駐車場に入ったが、時刻が早く、その先には入れない。お金を払って入るような観光施設には興味はない。そこには何かしら人に迎合するような仕掛けがあったり、自然に手が入れられたりしているからだ。

ひたすら外海府海岸を北上する。雪が本降りになり、峠では結構運転に気を遣うようになって来た。その代り、得難い景色にも出会うことができる。

最後の峠から一気につづら折れの坂を下り、岩をくり抜いただけの隧道(ここはひとつトンネルではなく隧道、と行きたい)をいくつか抜けると、大野亀が視界に入って来た。

大野亀到着、観光施設も冬季休業。標高167mの一枚岩が海に突き出しているという特異な景観。「 50万株100万本ものトビシマカンゾウの群生地で、黄色い花が一面に広がる季節は多くの人が訪れます。」とのことだが、景色は綺麗だろうが人がごしゃっと来る時期には来たくない。誰もいない遊歩道を、強風によろめきながら歩く。気持ちが良い。この先に神社があるようだ、しかし、崩落のため通行禁止となっている。

良く整備された遊歩道と柵に沿って歩き、断崖を覗く。内海府海岸も変化に富んだ良い景色だが、大陸からの西風と荒波を受ける外海府海岸の方が屹立した岩が多く、厳しい表情を見せてくれるように思う。断崖に沿って吹き上げてくる雪を浴び、遥か下から聞こえる、波の砕ける音を聴き、これぞ私の日本海に求める姿である、と再確認した。

駐車場に停めた車内でお昼を食べ、さていよいよ初日に時間切れとなった場所、二ツ亀に向かう。ここから2km程の行程。駐車場に車を停め、今回は三脚なしで、海面レベルまで降りる。右膝に痛みを感じ、階段を下りるのに難儀するようになった。諦めて帰ろうかとも思ったが、せっかく来たので頑張って階段を下りる。二つの亀がうずくまっているように見えるから 二ツ亀、と言うのだそうだが、私には良く分からない。

浜まで降り、これから大野亀の方向、賽の河原を目指す。この頃から何故か膝の痛みが軽減。

このような荒涼とした海岸が1.3km程続く。

賽の河原に到着、帽子を脱ぎ、お参りをして写真を撮らせて頂く。ここでは掲載は控えさせてもらう。

時間がいよいよ迫って来たので、車に戻り、一路両津港を目指す。ノンストップで行きたいところだがそこはやはり景色の良さで、 時計を気にしつつ 何度も車を停めて写真を撮ることになる。

午後2時半、無事に両津港まで帰着できた。撮影した写真約970枚、走った距離300kmジャスト。

佐渡に来る前に多少佐渡の勉強をしていたおかげで何となく(正しいかどうかはわからない)風景、建物、自然の受け止め方の自分なりの軸を持つことができた。旅から戻って来て、もう少しこの体験に基く記憶が沈殿した時に、自分の理解が定着することだろう。また、同時に新たな疑問も湧いて来ることだろう。 そうしたら、調べた結果、考えた結果を持ってこのブログに書き込んで行こう。旅を計画する楽しみ、目的地について勉強する楽しみ、実際に行く楽しみ、写真を撮る楽しみ、このように旅行記を書く楽しみ、写真を編集してアルバムとして仕上げる楽しみ、一つの行為でいくつもの楽しみを味わうことができる。この旅の背中を押してくれた奥さんに感謝。


旅行期間中の奥さん、娘とのメッセージのやり取り

奥 : 楽しんでる?
私 : 寂しくて楽しい
娘 : 寂しくて楽しいってなんかわかる
      一人旅の醍醐味だよね
      戻ったら家族とかがいるから楽しめるんだけど😗

          ↑ そ の 通 り !


この旅行の写真は別途アルバムとしてんねぞうの写真サイト「んねブラ」に掲載しました

■ 外海府海岸

■ 内海府海岸

■ 宿根木

■ 北沢浮遊選鉱場跡

■ 蓮華峰寺

 

2019/02/10
んねぞう

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