そうだ、
こんど奥さんとコンサート聴きに行こう!
んねぞう
女性指揮者の指揮で聴いたN響の演奏はカバレリアルスチカーナ間奏曲。とっても繊細な 演奏で良かった。久しぶりにクラシックを聴いたので、かさかさのあたしの心に 染み透った。N響も弦の響きが良かった。NHKホールは音響が良くないと聞いていたが、 改良されたのか、録音が良いのか、はたまたN響の腕が上がったのか、あたしの聴き 間違いか。 昔夢中になってヴァイオリンを弾いていた頃のことが思い出されて来る。 オーケストラはあの頃のあたしに取って「世界」だった。憧れ、純粋さ、夢、孤独、 感動、ときめき、内省… だけどあたしが一番やりたかったのはバロック。 通奏低音の響きの中に、何故か自分の原風景が見えて来る気持ちがするのだ。 バロックの調べを少しでも再現したかった。今でも、音色だけは誰にも負けなかったと 一人、密やかに自負をしている。奥さんもこれは認めてくれている。
んねぞう
あたしが若かりし頃、N響といえば日本の最高峰のオーケストラと言うことに異論のある 人はいなかったと思う。今はどうなんだろう。 その話はさておき、日本のオーケストラのコンサートでは楽員は当然のことながら日本人 がほとんどで、客席から見ると真っ黒な頭ばかりで、アメリカ、ヨーロッパのオーケスト ラの楽員の掘りの深い顔立ちとバラエティに富んだ頭髪にコンプレックスを持ったものだ った。ところが、若い楽員の中に茶髪発見!って考えて見ると当たり前のことか。 ステージの上だけ時代の流れと無縁である訳がない。 でまたアタシの余計な話ですが、確かに日本人のステージがモノクロームで色彩に欠ける と言いました、言いましたが、生まれついての頭髪でも何でも、人工的に染めてまで色付 けることはないやね。 と、いつの間にか話がオーケストラから思い切り外れてしまいました。
んねぞう
以前学生時代に猿谷要さんの本を読んだ中に、1960年代にアメリカで公民権運動があった際にアメリカの白人の何の変哲もない一家族が自己の信念に忠実に、周囲の白人社会の白眼視にも係わらずに家族が毅然として行動している姿の描写があったように思う。
当時のアメリカの中産階級(と言う言葉があるかどうか知らないが)の、その良い一面を象徴するような場面として記憶している。
その「信念」の拠り所だが、それは飽くまでも「自分に取って良い」ということではなく、少なくとも「社会に取って良い、またはそうあるべき」と言う基準が大切である、と言うことを教えられた。
んねぞう
前の記事に関連して、あたしの日本の社会のイメージです。横軸は何でもよろしい、スポーツでも、学力でも、犯罪でも。傾向としては、今は「すごい人はすごい」「悪いやつはどうしようもなく悪い」と言う方向に行っているのでは、と言うこと。平均は、物によっては悪くなっているのかな(例えば学力)?
以上、これはあたしの感覚的なイメージで何の根拠もないことを念のために申し添えます。
< バッカみたい と言われるかもね>
んねぞう

今日の日本と言う国の世界での位置づけは、まず先進グループと言うことで大方の合意は頂けると思う。
空港の入国審査でも日本人ということで恩恵を受けたり、街でも日本人であることで得をしたりすることは、あたしでも経験する。
でも、この特権は我々の先輩が戦後汗水たらして築きあげてきた経済的な基盤の上に成り立っているということは認識すべきと思う。
おっさん何を力んでいるの?と言われると思うが、今の日本を見ると、本当にこのままで良いの?疑問に思えて仕方がないのです。日本は資源はない、あるのは人だ、技術だ、それでしか日本は生きて行けないと思い数学が不得意ながら工学部に入ったあたしは別として、これからの世界で日本は何を以て世界にその存在を保ってゆけるのだろうか。
一人で心配しているのは今の10代、20台の若い人達とその親に対して、「社会」と言う視点があるのか、と言うこと。
決してこれは「仲間」、あるいは「世間」ではなく、また「社会」と言う言葉も今は日本だけではなく国際的な広がりをもって捉えなければならない場面も多くある。そういう
「しつけ」を今の親はできていますか?
んねぞう
今夜仕事で遅くなり、12時過ぎに自宅で酒を飲みながらテレビをつけたら、NHKのBSで 黒田恭一さんが出ていたので見ていたら、N響と外人女性指揮者の番組だった。 ここで驚いたこと、思ったことをこれから何回かに分けて綴ろうと思う。 若き頃クラシック音楽に、憧れと夢を持っていた中年男の感傷、というところか。
んねぞう
人間ががさつなことを英語でどういうのか、辞書を引いて見た。 自分も含めた最近の日本人に贈る。
んねぞう
あたしは煙草は吸わない。 あたしの住んでいる都市では、確か歩きタバコ禁止条例が施行されているはずだが、歩きタバコの多いこと、多いこと。 通勤時間帯に、前を歩く人に煙草を吸われると、混んでいるだけに追い抜きもならず息を詰めてつき従う仕儀となる。 あたしにはわからない。こういう人は、後ろを歩く人の迷惑に本当に気がついていないのか、気がつかない振りをしているのか。 隙を見てとっとと追い抜く。抜く時にわざとらしくふうふう吹いて煙を吹き払うようにして。
もうひとつ。昔は火の方を自分の手のひらの方に向けて他人に触れないようにしている人が多かったが、今は正々堂々、手を大きく振って闊歩している人が多いような。
海外から帰って来た時はこの歩きタバコにがっかりして「帰って来た」ことを確認するのである。
んねぞう
一時期電車の中では電源を切るようしつこくアナウンスがされていた時期かあった。 輻射電波のために体に変調を来たす人があってはたいへんと思い、 忠実に守っていた。 だけどあれだけしつこく言われているのに平気な顔で通話している人が多かったように 思う。 混んだ電車の中で携帯電話のせいで事故になった事例がどれだけあったか、明らかに してもらうと説得力があるのにと思っていた。 そのうちにある電鉄会社で、偶数号車では電源を切り、奇数号車で電源を入れても良い が通話は駄目(逆だったかな)ということになり、今は関東地方の鉄道会社の申し 合わせで優先席近くでは電源を切り、その他では通話以外OKということになっている。 実際のところ、携帯電話の輻射電波の被害はどうなってるんだろう…?
え、お前は今どこにいるかって?いえね、電車の中からこの文章をポストしようと してるんでさあ。
んねぞう