Archive for the ‘日記・コラム・つぶやき’Category

文芸同人誌 「澪」

私は今般、横浜を中心として活動している文芸同人誌「澪」の同人に加入させて頂きました(下の画像をクリックするとそのサイトに飛びます)。

今年4月に写真教室に入門し、講師の先生より、ある日、その写真教室の授業の合間に先生の主宰する文芸同人誌への加入のお誘いを頂いたもの。当初、尊敬する先生から、思いもよらなかった同人誌の加入のお誘いと言うことで、嬉しくて舞い上がってしまった。が、さて家に帰って少し頭を冷やして、同人誌のバックナンバーをAmazonで購入して(電子書籍化もされている)読み直して見ると、これはとても私の及ぶレベルではないと恐れをなして一旦はおことわりのMailを出したのだが、その後いろいろあって、参加させていただくことになった。内容はバックナンバーの一冊でも手に取って頂ければわかるが、小説、エッセイ、評論、写真等小冊ではあるがレベルの高い作品ばかりだ。

長い間研鑽、精進を続けて来た、このような集団の中で、私に何ができるだろうと、いろいろ考えたが、結局私には「んねぶら」で発表している表現スタイルしかないので、写真と文章の合わせ技で、自分を表現して行くしかないと思い定めている。昨日初めて編集会議に出席し、自己紹介の後、内容、ページ数、掲載順等について打ち合わせて、その後居酒屋で酒を飲みながら同人の方々とお話をさせて頂いた。皆気持ちの良い人達ばかりで、どうやら私の居場所を作って頂けたようだと感謝しつつ安心している。と同時に、それぞれの「表現」と言うものに対する渇望、気迫がひしひしと伝わって来て、今までへたれブログを綴って来た我が身としては緊張で胴震いがする。反面、これまで関わりのなかった分野の人達から、いろいろ刺激を受け、視野が広がるのではないかと楽しみにしている自分がいる。

2019/12/08
んねぞう

◆ 「澪」の購入はこちらから → 「澪」の購入方法

色空間

このところ写真ブログの写真の色がおかしいので頭を悩ませていた。現像ソフト上では正常なのに、jpegで書き出すと色がくすんだり、空の色が気持ち悪くなったりしていた。今日、現像ソフトの書き出し時のオプションが違っていることが、やっとわかった。何故かProphoto RGBと言うカラースペースになっていて、これをsRGBにしたところ、まともな色になった。マウスと指のクリックのタイミンクで、そこのオプションに触れてしまったのに気付かなかったようだ。

最近カメラが壊れて修理に出したり、別のカメラも調子が悪くなっているので、ひょっとしてまた何か修理にお金がかかるのか、と内心がっかりしていたので、ほっとしている

2019/11/30
んねぞう

30

11 2019

新幹線車内テロップ

新幹線の客室内の出入り口の上に表示されるニュースのテロップが気になる。 退屈で目が泳いでいる時に、別に必要でもない情報が目に入ってきて、それがゆっくり流れるので、「もっと早く流せ!」と思わせたり、同じ記事を2回続けて流すのだがふと目が行った時に末尾の文言が目に入って、「ん?」と思ってもう一度見たいときに限って次の記事に行ったり、なかなか、からかわれている感じが良い。このようなテロップを作成するサイトを見つけたので、作って見た。

作って、どや、とじっと見ていると目がおかしくなり、眩暈がしてくる…

作成ツールのあるサイトは下記
電光掲示板 Generator

2019/11/09
んねぞう

あ、はい…

以前から気になっていた看板
まあ、そうだよな、家の中でドタバタ走り回って年寄にぶつかって転倒したら大変だしな、だけどそもそも我が家に限って言えば走り回るスペースなんてないし
とか色々考えさせられる

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つまり、

先日写真を撮りに行った先の駅のトイレで

2019/09/28
んねぞう

写真展出展

写真教室の主催する写真展に、初めて出展した。古民家のある公園の蔵を使ったいい感じのギャラリーで、それほど広くない会場の中の、土壁1スパンに展示してもらえて、優遇されているのかも。写真はこちら- 追憶の静寂(しじま)(んねブラに飛びます)

2点出展したが、入れ替え制で1点ずつの展示らしい。

2019/08/03
んねぞう

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03

08 2019

今宵、フィッツジェラルド劇場で

2007年に 「今宵、フィッツジェラルド劇場で」と言う映画が日本で上映された。”A Prairie home companion”という、米国での人気ラジオショーに題材を取った映画で、私も長年聴いていた。私は映画は興味はなく全くと言って良い程見ない。しかし、この映画だけは機会があれば見に行きたいと思っていたが、時期を逸して現在に至る。 この間思い出して検索して見たら、レンタル落ちのDVDがあったので買って見ている。 Robert Altmanと言う監督の作品で、遺作となったものだという。それはともかくとして、この映画の内容が、実際のラジオ番組を聞いていた身として全く違和感のない、ストーリーに身を任せられるものだった。アメリカの映画とかアニメにありそうなテンポの良さと、しかししっとりとした画面と進行の雰囲気に魅了される。キャストに実際のラジオ番組の出演者も入っており、例えば既に亡くなってしまったSound effects manのTom Keithも実際にSound effectsで出演しているし、声でしか聴いたことのなかった Meryl Streep の演技も見ることができた。私はこの人は歌手だと思っていたが、大女優だったんだ。

この映画が日本で公開されてから12年経ち、世界は大分変わった。この番組の創始者で脚本家で、ホストである Garrison Keillor が2016年に若いマンドリン奏者に番組を引き継いで引退した。その後番組のテイストが変わったので、私はこの番組を聴かなくなったが、後で知ったが翌年セクハラのスキャンダルで、放映した放送会社とも関係を断絶されたとのことだ。映画の中で、出演者の中の4人姉妹の一人が低血糖で気分がおかしくなり、たった59セントのドーナツ代を払い忘れて逮捕された下りが出て来る。 Keillor 自身のスキャンダルでも双方に言い分はあるのだろうが、 Keillor 自身は相手を励ますためにたまたま手が触れた、と言うことを言っているようだ。この場面が符合して、何となく複雑な気分になる。

この映画のラストシーンで、放送局と劇場はテキサスの実業家に売却され、拠点を失った主要メンバが数年後にまた劇場前の小さなレストランで再起の相談をしている所に「天使」が現れ、メンバが微妙な表情をしているのが、この映画の後味をミステリアスなものにしている。この物語の軸はいくつも絡み合っていて、いちいち挙げてもきりがないが、一つ挙げるとすると”死”があると思う。本物のラジオ番組では出てこない「天使」が、「神の導きによって天に召しに」地上に降り立ち、出演者の一人の老人「チャック」を天国に送り出す。その死を発見した愛人に対して、「旅立っただけ」「老人の死は悲劇じゃない」「彼の欠点を許し、愛と優しさに感謝するのよ」と言わせている。監督はこの年2006年11月に亡くなっている。アルトマン監督は自分の死期を悟っていたのではないか、と言うような忖度もしたくなってくる。このDVDには、おまけとして監督とGuy Noir役の Kevin Kline の対談によるオーディオ解説が入っているが、最後のシーンで天使がGarrison、Guyを含む4人の元に現れた時、 Kline はGuyを迎えに来たのだと語り、監督はそうだ、そしてこれはGuyの夢の中の物語だった、Guyは夢から覚めてまた仕事に出かけるのだと述べているが、私はこの見方には与しない。そうだとすると予定調和的な結末となり、物語の奥行きが狭くなる。監督がそのように意図していたとは思わない。あの場面で4人に、しっかり天使が見えていたかどうか、私はGarrisonの視線が定まっていないことが気になる。 Garrisonが最初に気配に気が付いてそれが何かを見極めようとしている。召されに来た本人には、天使の姿が見えないのではないか。何故そう思うかと言うと、天使が前述の「チャック」が舞台袖で出番を待っている時に彼の肩に手を置いた時、本人はそれに気づいていない。ただし、その後、少し体調が悪そうな仕草をして舞台を務めて自分の控室に戻り、蝋燭を点け、レコードを回してベッドに横たわるという場面を見て、老人は何とはなく自分の死期を悟ったのではないかと思うからだ。私にはGarrisonを迎えに来たように思える。 従って、Garrison、そしてチャックが監督自分自身なのだと。

この映画の基調は、中西部の人達のメンタリティーにあると思う。これを伺わせるセリフが耳に残っている(済みません、見栄を張りました、字幕が目に残っている、です)ので、転載する

中西部の者達は災いは無視すれば消えると考えている
(Guy Noir)

我々は暗い大地の暗い人間なのです
事態は悪くなると信じ、悪くなるのを待ってる (*)
人生は苦闘だと教えられて育ちました
幸せになったら、不幸になるまで耐えるのです
中西部の人間は自分の終わりを悠々として受け入れる傾向がある
(以上Garrison)

アメリカ西海岸風の考え方と何と違うことか。因みに、(*)のフレーズに通ずるものがMurphyの法則にもある。

Things go right so they can go wrong.

最後に、私は最近写真教室に通って、構図と言うものを学び始めたところなので、映像の作り方のうまさに感心する。例えば、楽屋の中で、鏡を多用して、登場人物を一つのフレームでいくつものアングルから見せる手法、天使の背景にあった天井の照明器具を天使の輪のように重ねて見せて、天使が去ると同時に電球が切れるような演出。一つのシーンで前景と背景で別々の事象が同時進行している様等。一度見ただけでは気づかないことが多い。

P.S.
10年前の投稿で、「 Tim Russell, Sue Scott, Tom Keith, Fred Newmanの役が入っていないのは寂しい。 」と書いた。このDVDを見て 、Fred Newman以外は出演しているのを見て安心した。

2019/07/20
んねぞう

父の日のどっきり

父の日の今日、娘と待ち合わせて昼食を食べた時、プレゼントをもらった。ラッピングされた上から、中の箱のデザインが透けて見えて、CANONのレンズの箱のデザインにそっくりで、今自分が使っているレンズの型番が印刷されている。

えっ、えっ、娘がレンズをプレゼントしてくれるのか、えっ、今持っているのとカブってるじゃないか、どうする、どうすると半ばパニック状態になりながら中身を取り出して見ると…

タンブラー…

かなり似ている。と言うかそっくりだ。

これに加え、去年の萩原朔太郎の詩集に引き続き、今年は中原中也の詩集をプレゼントしてくれた。

このレンズ、いやタンブラーを家に持って帰ったら、奥さんが、父の日にかこつけて、娘にもらったとか言って新しいレンズを買ったんじゃないの、と思ったと言う。そんな金ねえです。

いやー、焦ったけど、娘の御茶目なところは誰に似たんだろうか

2019/06/16
んねぞう

大食いYoutuber – 食べ番組

このところ大食いのYoutube番組の視聴に嵌っている。人が食べ物をおいしそうに食べている所を見るのは楽しいことであることに気が付いた。念のために言っておくが食べ物を粗末に扱って遊んでいるのとは別のことだ。

特に、韓国のあるYoutuberが両親と料理を黙々と食べている番組が好きだ。一家揃って大食の部類であることは間違いないが、 日本のYoutube番組のように食べる量や速さを追及するものではない。 お母さんは料理が上手で、時々調理の様子も流している。お父さんも含めて3人で、多分家のベランダだろう、長閑な畑の風景を背に並んで食べるのだが、困ったような顔をした朴訥なお父さんもまた味があって良い。ただ食べているだけで、何の会話、コメントもなく淡々と進んで行くのだが、その中で、母親は夫や息子のために料理をよそってやる、息子は父親が先に箸をつけるのを待っている等、家族の関係が垣間見られてほっこりする。この番組の視聴料(?)で両親を海外旅行に行かせてあげることができました、とか言っていた回もあった。

この手の番組は、韓国語でMukbang(モクバン)と言い、韓国語の「食べる」と「放送する」の混成語だそうだが、だとすると日本語では旅番組ならぬ食べ番組と言うことだな、と一人合点する

2019/05/19
んねぞう

写真教室その2

今日は写真教室。絞り、シャッタースピードとISO感度の関係の話。私なりの理解は下記。

デジタルカメラは、レンズを通して入って来る光が撮像素子に投射されることによって撮像される。その光の量は、レンズの開口の大きさと、シャッターが開いている時間に比例する。水道のアナロジーで考えるとわかりやすいかもしれない(絞りは蛇口の開度、シャッタースピードは蛇口を開けている時間)。一方、撮像素子は受けた光を電気に変換する働きをする。この光の電気への変換にあたって、例えば1の量の光に対して、どの程度の電気に変換するかの倍率のようなものがISO感度である。例えば、同じ光量でもISO100 だと暗くて映らない場合、ISOを400にして感度を4倍にしてやることで、撮像素子が1の光量に対して4倍の電気に変換してくれるので、その分明るい画像を得ることができる。

特にISO感度の考え方について、同じ教室の仲間の方に理解が難しかった方がいたようなので、私なりに説明の図を作って見た。発生する電気の増幅は撮像素子で行うように書いたが、実際はその下流の回路で行っているのかも知れない。その辺はまあ、初級と言うことで…

被写体が暗い場合は、シャッタースピードを遅くしたり絞りを開けることで、撮像素子が無理なく撮像できるだけの光量を確保することが基本だが、あまりにも暗くそれでは追いつかない、かといって三脚も使えない、或いは表現の都合上絞りを絞って撮影したい、シャッタースピードはあまり下げたくないという場合もあるだろう。そのような時はISO感度を上げて、撮像素子で十分な電荷を発生して明るい画像になるようにする。大変便利な機能だが、ISOの感度をむやみに上げると撮像素子でノイズ(輝度のムラ)が発生し、画質を損ねることに注意が必要(敢えてその効果を狙うという場合は別)。

写真の標準露出量は、このISO感度、絞り、シャッタースピードの3つのパラメータの組み合わせによる。例えばISO感度、絞りを人間が設定すれば、シャッタースピードは 標準露出量に合わせておのずと決まる。同様に、ISO感度、シャッタースピードを人間が設定すれば、絞りは標準露出量に合わせて おのずと決まる 。 ただし、注意しなければならないのは、カメラが自動的に設定してくれるからと言って任せきりにすると意図しない写真になることがある。例えば、人間が指定したISO感度、絞りで撮影するとシャッタースピードが遅すぎて、ぶれた写真になったり、逆に早すぎて、被写体の動きを見せたいのに止まった写真になったりする。

講座の前に、今日は、講師の先生が主宰する写真倶楽部の作品展示会にお邪魔した。先生からも親しく説明を頂き、構図の考え方、タイトルの付け方の難しさ、組写真の難しさ、人物を撮る際の注意点等を学んだ、大変有益な時間だった。
見応えのある写真ばかりで、あるものは主題が立体的に浮き立つような写真、あるものは抒情的な、あるものはモノクロで心象風景的な素敵な写真だった。私が撮る写真は、それに比べると平板で、何だか小汚い感じがする。前々回だったかの教室で、卑しい人間の撮った写真は卑しい写真になる、と言うお話があって、ギクッとしたが、要するにこういうことなのか、と。

先生に、私が以前インドに足繁く通っていた時期があり、そこに暮らす人々の、生活や生きて行く辛さを見ようとして写真を撮っていたことをお話しすると、そのような視点での写真も有りではないか、基本は撮る人が何を見たか、見せたいかが全てだ、とのお話だった。

2019/05/18
んねぞう

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05 2019