津軽三味線の系譜 ー その3
これまで、本を読んで、また演奏を聴いて、自分なりの津軽三味線に対する理解を以下に記す。
文化的、歴史的背景
- 津軽三味線は、津軽地方の人の性向、文化と密着している。
- 江戸から明治時代にかけて、盲人男性は「坊様(ボサマ)」として、按摩、三味線等の職業にしか就けなかった。門付によって収入を得ていた。
- 津軽地方にも、瞽女による三味線音楽が定着していた
津軽三味線の起源
- 安政4年(1857年)北津軽郡神原に生まれた仁太坊が、義太夫に影響され八人芸(ハチヌギゲイ)を始める。劇的効果を上げるために叩き三味線の奏法を創始。
津軽三味線の発展
- 叩き三味線の系譜として、仁太坊の後、白川軍八郎(津軽三味線の神様と称される)、木田林松栄、福士政勝、弾き三味線の系譜としては、太田長作(長泥手の創始者)、高橋竹山がある。
- 演奏の場…門付/盛り場、祭礼の場。明治末から唄会。
- 当初は唄の伴奏の位置づけ。亀坊が唄の変化に対応する演奏を始めた
- 嘉瀬の桃太郎が伴奏楽器から独奏楽器へ地位を高めた
音楽としての津軽三味線
- 津軽人の気質(上記構造図参照)である「ナ、ナダバ」の精神に基づき、他人の模倣を非とする奏者、聴衆の姿勢により、当初唄の伴奏に甘んじていた地位から徐々に独奏楽器にまで上り詰め、演奏そのものも情念を叩きつけるような派手さ、技巧を競う。他人との差異化のため、奏法も各自が工夫し、演奏も即興性を重視する。
整理すべき点
- 「じょんから節」の定義…その起源。演奏、旋律の多様性に対する理解。
じょんから節は口説から来ている(cf.「じょんからをまがす」)。じょんからに合わせて伴奏した三味線が、口説に合わせて旋律が変化することは理解する。その後独奏楽器としての三味線がじょんから節を奏でる場合、依拠する口説がないのに「じょんから節」として独奏することに対する疑問