Archive for the ‘書籍・雑誌’Category

アイルランドひとり旅

11月上旬、2週間程アイルランドとイギリスを独りで旅をして来た

 きっかけは、私は、旅をする前には、その土地について多少の知識を仕入れて出かけるようにしているのだが、以前、津軽や佐渡に行く際、司馬 遼太郎の「街道をゆく」シリーズの本を読んでいた時に、同じシリーズの「愛蘭土紀行」の表紙の写真が目に留まったことだった。数年前のことで、ダブリンのトリニティ大学の図書館の内部の写真だったが、非常に歴史を感じる写真だったので、その後、その本を購入して読んでいるうちに、アイルランドの国の成り立ちと言うものに非常に興味を持つようになった。宗教を軸としてアイルランドがイギリスに蹂躙されて来た歴史と、そこに住む人々に勝手にシンパシーを感じ、また、ドルイド教の痕跡も残しつつキリスト教のベールを被ったような精神文化と自然、気候、そのようなものにも惹かれるようになった。また、最近私の所属する写真倶楽部の講師の先生が主宰する映画教室で、ロバート・フラハティ監督のドキュメンタリー映画「アラン(Man of Aran)」が取り上げられ、それを視聴して、厳しい自然に立ち向かって生きている人々に強い印象を受けたこと、さらに、アイルランドは人口は数百万人程度なのにノーベル文学賞受賞者の数が非常に多いことがわかり、ジェームス・ジョイスの「ダブリナーズ」などを読んだ。さらに、アイルランドの国民的音楽家としてTurlough O’Carolan(ターロフ オキャロラン)と言う人がいることを知り、その典雅なIrish harpの響きにも魅せられたりして、行きたくなったので、多分私の最初で最後となるであろう海外独り旅を敢行することとした

目標を下記の4点に設定した

  1. アイルランドのアラン諸島のInishmore(イニシュモア)島で、Dun Aengus(デューン アンガス)、Black Fort等の崖を訪ね、その道すがらの風景を探訪する
    • まずアイルランド Inishmore島に入り、映画「アラン」に現れている風景の中を歩き、空気に触れたい。その中で、島のキリスト教、あわよくばドルイド教の残渣、妖精の気配などを感じたい
    • Irish harpは無理だがリコーダーを持参して、崖で一人Turlough O’Carolanの曲を奏するのも乙なものではないかと(そのために採譜までした)
  2. アイルランド本島のCriffs of Moher(モハーの断崖)を訪ね、その周辺のTrailを歩き、風景を探訪する
    • Galwayからレンタカー等を使ってCriffs of Moherまで行き、その周辺のTrailを歩いて、探訪したい
  3. アイルランドのDublinで、ジェームス ジョイスの「ダブリナーズ」に出て来る掌編の舞台を探訪する
    • ジェームス・ジョイスの「ダブリナーズ」の中の「小さな雲」の主人公、リトル・チャンドラーが歩いた場所をトレースし、その時代の記憶を探したい
  4. イギリスのCotswolds(コッツウォルズ)で、Foot Pathを心行くまで散策する
    • イギリスでは、牧草地等の私有地でも部外者が自由に通行することのできるFoot Pathが整備されていると聞く。Cotswoldsの「最も美しい村」と言われている家並もそうだが、イギリスのなだらかな起伏の、緑滴る野原を一人存分に満喫したい

時期は、本当は自然が牙を剥き出す真冬の完全なるシーズンオフで、全く人のいない状況が良いのだが、そうなるとInishmore島の宿が冬季休業に入ってしまうので、そうなる前のぎりぎり11月上旬に設定した

宿、移動その他はWebと電話で自分で手配した

旅行にあたり、下記の書籍、資料を読み、準備した
– 【書籍】「街道をゆく 30 愛蘭土紀行 I」, 司馬 遼太郎 朝日新聞出版
– 【書籍】「街道をゆく 31 愛蘭土紀行 II」, 司馬 遼太郎 朝日新聞出版
– 【書籍】「ダブリナーズ」 ジェームス・ジョイス著、柳瀬 尚紀訳 新潮文庫
– 【書籍】「アラン島」 ジョン・ミリントン・シング著、 姉崎 正見訳 Web版 ↓
(https://yab.o.oo7.jp/Aran%20Is%201.html)(https://yab.o.oo7.jp/Aran%20Is%202.html)(https://yab.o.oo7.jp/Aran%20Is%203.html)(https://yab.o.oo7.jp/Aran%20Is%204.html)
– 【映画】「Man of Aran」Directed by Robert J. Flaherty https://www.youtube.com/watch?v=9RSlebOCp0E
– 【音楽】Turlough O’Carolan’s Ramble to Cashel https://www.youtube.com/watch?v=VpbGTaCakAY&list=RDVpbGTaCakAY&start_radio=1
– 【楽譜】自分で採譜

悪乗りして旅のパンフレットまで作成した(ドヤ顔工作枠)。使っている写真は帰って来てから自分で撮ったものに差し替えている

旅行記は、書くかどうかは、まだわからない

2025/11/20
んねぞう

澪26号 合評会

私の属している文芸同人誌「澪」の第26号が発行されたのを受け、先日横浜市内で合評会が開催された

前回、私は「異界」と称してホラーSFフォトストーリーを発表させて頂いたが、今回は、前々回までの流れのインド物に戻した。これまではデリー市内をうろうろしている時のフォトストーリーだったが、今回はデリーを出て、ヒンズー教の聖地の一つであるMathura(マトゥラ)に向かう途中で見た人々の事を書かせて頂いた

主にチャーターした車の車窓からの風景を元に構成したが、様々な階層の人々が写っているのを見て、同人諸氏からは、インドの階層と言えばカースト、それにまつわる、もう少し突っ込んだ話があれば良かったとのご指摘を受けた。インド社会でも現実にデリケートな問題でもあるので、私が体当たりで実相に迫る等と言うことは到底できないにしろ、経験から自分なりの見方と言うものを纏めておいた方が良かったかな、と思った

写真的にも、読者は現地ルポルタージュ/ドキュメンタリーとしてのテイストを期待しているので、周囲の状況が分かるようにもっと(カメラの絞りを)絞り込んて背景もくっきりと写すべきと言う指摘を頂いた

今回特筆すべきは、編集長の先生が講師をされているエッセー教室の生徒さんが特別に来られて、小説の原稿を拝読し合評したこと。20歳の若い人だが、20歳時代の私にこのような小説を書けと言われても(今でもそうだが)、逆立ちしてもできない作品であった。ストーリー、文章の確かさ、会話のテンポ、どれをとっても素晴らしいし、20歳の若者にしか書けない、ストレートで、読後感の爽やかさが強く印象に残る作品だった

2025/10/13
んねぞう

13

10 2025

澪25号 合評会

 去る4月29日(昭和の日)に、横浜市内某所で文芸同人誌 「澪」 25号の合評会が開催された。編集長以下同人3人の計4人で、真摯な議論が交わされた

 今号の私の作品「異界」は、澪史上初(だと思う)のホラーSFフォトストーリーだが、さすがに同人諸氏の的確な読み取り方に敬服した。特に、SFとしての構成、視点についてなるほど、そうかと言う指摘、示唆も頂き、ありがたくも「これからも読みたい」と言う声も頂いたのに対して、もう私はこれ一発で、もう書けませんから、と思っていたのが、では、折を見てまた書いてみるかと言う気持ちになったのは自分でも意外だった。ただし、編集長の先生から、あなたの写真の持っているリリシズムは、失って欲しくはないですとのお言葉もあり、拝承

 私の作品以外にも、他の同人諸氏の間で私とは比べ物にならない高いレベルの指摘、アドバイスなどが行き交い、溜息をつきながら家路についた次第。ただし、眉間に皺を寄せて文学論をブつ、等とは程遠い、非常にアットホームな雰囲気なので、今回止むを得ず欠席された同人にも、次回からはぜひ参加してもらいたいと思う。私がしっかり底辺を堅めているので、その点で心配することはないです、と言いたい

参考までに、私が初めて合評会に出席した時の記事のリンクをこちらに置きます

20245/04/29
んねぞう

澪 25号の構想

文芸同人誌 澪 25号の作品の構想を考えなければならない

今回はこれまで続けて来たインド物のフォトエッセーではなく、編集長からいくつか示唆を頂いて、少し、いや大分毛色の変わったものを、と2つ考えていた

一つは、私が11月の写真展で出展した写真に題材を取って、自分の少年期の内面的な迷い、来し方を表現するようなものを構成するか、もう一つは写真の疑似的な「ソラリゼーション(※)」と言う技法を使って、ホラーSFのフォトエッセイ (= ホラーSFフォトストーリーとでもいうのが適切かも知れない)を構成するかだ

両方について進めていたが、前者はかなりストーリーと写真の材料に吟味が必要で、長期戦となって25号に間に合わないか、成立しないかのどちらかになりそうだ

後者(ホラーSFフォトストーリー)は以前から温めていたものだが、かなり思い切った書きっぷりになり、「澪」のテイストにマッチするか、事前に編集長に相談が必要だと思っていたが、編集長の先生とお話しした際に、そういう実験的なことは歓迎する、と言う助言を頂いたので、25号はこれで進めたいと思っている

※ 「疑似的なソラリゼーション」については先日このBlogにこのような書き込みをした

2024/12/08
んねぞう

08

12 2024

澪22号が出来上がった

私の所属する文芸同人誌「澪」の同人誌第22号が出来上がり、送られてきた。15号からの加入なので、これで8回目になる

私の作品はフォトエッセーと言う触れ込みなので、写真と文章のハイブリッドな構成により、表現の相乗効果を狙うべきところである

写真については、他の号とは違い、何故か階調が良く表現されているが、逆に私の意図した、暗部がどすんと落ちたインパクトのあるイメージではなくなってしまった。出来上がりをイメージして入稿の際に調整したのが、これまでの経験が作用して、かえって自分の意図をスポイルしてしまっているかも知れない。これは振り子のような揺り戻し効果のため、収束するのにもう少し時間が必要なのかも知れない。と言うか、お前は「澪」15号以来何回揺れているのだ、と言う突っ込みは必至だが

文章についても他の同人諸氏と比べて突き詰め方が浅く、何だかなあ、と言う感じである。ページ構成の都合で、一ページに写真を張り付け、そのページ内で叙述を完結させるという制約の中だとどうしても書ききれない内容が出てしまう。これは言い訳だ。ちゃんとした物書きは限られた字数でも余すことなくその思想を展開することができるだろうから

毎回、妻と子供達にこの「澪」を「ココロノカテ(心の糧)」としてプレゼントしている。日頃から接している、楽しいもの、新しいもの、光り輝くもの、前向きなものからいったん目を背けて、ひっそりと息づくもの、自己主張がなく、打算のないもの、それこそが尊いもの、それが世界、人生を形作るものである(或いはそうあってほしい)と言うところに思いを馳せてもらいたいという願いからだ

皆私の作品の理解者なのだが、娘から、「もうインド物は飽きた」と言う爆弾発言があった。インド物はこれで4回目になるが、一旦箸休め的に別なものにした方が良いと言うのだ。親父は娘の言葉を無碍にもできず、多分この先数か月、どうしようか悩むことになるだろう

上の写真は私の今回の作品の写真の一部である。女性の写真を敢えて選んで掲載したところに、澪の販売部数の増加を意識した下心が潜んでいる

2023/10/27
んねぞう

パソコンで文書を作成する時のTabキーの挙動について

昨日、私の所属する文芸同人誌の合評会の席上、段落と字下げ(インデント)のことについて問題提起を頂き、考えているところを書いた

暇なので、インデントの時に使うTabキーの挙動について述べたい

まずは下の表を参照願いたい。一般の文字”a”や空白にはユニークな文字コードが割り当てられており、それぞれ決められた文字を画面上に表示するように決められている。それに対して、Tabキーは制御コードとして、これをどのように扱うかはシステムである程度決められるようになっている。例えば、Tabの①のケースでは、作成するソフトでは、TabはTabの制御コードのままで、画面上の表示は半角空白4つ分と定義することができる。一方、受け側でもTabキーをどう扱うかを決めることができ、Tabコードとして扱うのか、空白に置き換えて使うか、その表示をどうするかを決めることができる

具体例を下に示す。左の青い画面は、私が普段使っているText editorで、Tabは空白4文字分の間隔を空けると設定している(最初の2行は桁数を表す目印です)。3行目にTabを置いて、次いで小文字の”a”を置いたもの。半角スペース4つ分の間隔の後に”a”と表示されているのがわかる。”>”という記号はこのエディタがTab記号を表示するのに使っている記号である。ここで注意して欲しいのは、実際に空白を4つ置いているのではなく、空白4つ分の空白を空けるように表示を制御していると言うこと

これをコピーして、Microsoft Wordに張り付けて見たのが右の図。WordではTabを表す記号に”→”が使われている。これでWordはTabキーはTabとして認識していることが わかるが、”a”の位置に注目して欲しい。Text editorでは”a”が5桁目にあるのに対してWordでは4桁目にあるので、送り元のText editorとは違い、Tabには半角空白3つ分しか取られていないことになる。これでわかるように、Tabの扱いは送り手、受け手で可変なので、必ずしも送り手の意図通りには表示されない

Tabは昔タイプライターで表の形式で文書を作成するときに、一定の間隔をあけてキャリッジ(パソコンで言うカーソル)を移動するために設けられた。Tabは多分(駄洒落分かって下さいまたは堪忍して下さい)”Table”から来た名前だと思うが、それが、英文のインデントを入れるのにも使われてきたという経緯がある。だから、字下げにTabを使うのは正当だと思うが、コンピュータで使う場合は再現性が担保できないことが分かっているので使いたくない。それでは空白を使えば良いかと言うと、私はそういうやり方はスマートではないので好きではない。よってインデントは、作品のようなこだわって作成する文書には使いたくないのだ

補足だが、ここではパソコンで原稿を作成して、他者に送って編集してもらうときのことを言っており、予めTabの取り扱いについてルールが決めてある場合や、自分で印刷まで行って、印刷上の体裁までコントロールできるような場合は上の限りではない

2023/05/01

澪 対面合評会 並びに段落のインデントについて

私の所属する文芸同人誌「澪」21号が3月に発行され、対面合評会が、連休の初日、4月29日に開催された

私の作品についても、同人諸氏からいろいろ有益な助言を頂いた。中身について、おおむね評価を頂いたが、編集長の先生より、頁毎の客観、主観という見方とその構成について、目を開かせられるアドバイスを頂いた。これは他の同人諸氏も同じ思いを持たれた様だ

段落の件について考えさせられることがあったので記しておきたい

私の作品は、1頁に写真1枚、その下に若干(130~280字程度)のキャプションを配置するという構成である。キャプションの字数は大したことはなく、1段落で済むような分量なので、これまで段落を分けること、段落の1行目を字下げするということはしないで来たが、なぜ段落分け、字下げをしないのかという問いを頂き、改めて考えてみた

段落についての私の基本的な考え方はこうである

仕事の文書も含め、長文の場合は、段落毎に1行空け、字下げはしない。私のブログの過去の記事を例として下に掲げる。左はWordpressが段落毎に隙間を自動的に空ける仕様となっていることもあり、段落と段落の間が空いている。右は、同じ文章をMicrosoft Wordに流し込んで、段落の間に改行を入れたもの。Wordの場合は、段落後の行間の幅を調節する機能があるので、その幅を大きく取るという方法を取ることもある

なぜ私が字下げをしないことにこだわるかというと、Word、Mailソフト、あるいはテキストエディタでインデントを入れる際はTabキーを使うのだが、これが使うソフトによって、またその設定によってその幅がスペースいくつ分かが違って来て、私が意図したスペースで再現できないことがあるからだ。例えば、私の使っているテキストエディタでは、インデントしたい場所でTabキーを打つことでTabの文字コードが埋め込まれていくが、表示上何桁分とするかを設定できる。しかし受け取った先でも、Tabキーのままか、スペースに置き換えられるのか、スペースいくつ分と解釈するのかは相手側のソフトの設定でどうともなる。それではと言って、スペースで埋めるといっても、スペースキーを何回もカタカタと叩いて入れるのはあまり美しくないし、全角、半角のスペースが混在しても気づかないという問題がある。なので、私はあまりインデントは使いたくないのだ

ということで、下記の原則を掲げてしばらくは進みたい

1. 長文の場合は、段落毎に1行空け、字下げはしない
2. 私の澪の作品のように、一つの頁で段落が一つしかない
    場合はこの考え方を踏襲して、段落が一つの場合は字下
    げはしない。段落が2つ以上になる場合は、行を開けるか
    どうかは紙面のスペースとの勘案で、行を開けるか、また
    は行を空けないで最初の行をインデントするかを考える
3. 英語の文章の場合は、これを意識して見たことがなかっ
    たので、これから注意して見て、どうするか考える

私のブログの文章を見て、段落の最後の文の文末に句点「。」がないことにお気づきの方もおられるかもしれないが、これについては私も意識してそうしている。理由は、上の段落の話以上につまらない個人的な拘りなので言わない

2023/04/30
んねぞう

続 : 今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。

杉本博司の展覧会についてこの前の記事で書いた時に、東京都写真美術館のHPを見たら、図録が発売されていたことに気が付いて、早速調べてみたが売り切れていた。諦めきれずに古本を探したら、神田の古書店で取り扱いがあったので、価格が高くなっているのには目をつぶって(奥さんにも目をつぶってもらって)購入した

それがこの本

表紙には何もタイトルの文字が書かれていない

背表紙もなく、綴じたままの体裁。表紙と言い、背表紙と言い、この展示の内容のコンセプトをそのまま体現したものであると感じた

ひょっとして前の持ち主が自炊した後かと思って、Webで画像をいくつか確認してみたが、みなこの形だったので安心したことは自分の肝っ玉が小さいことの証左である

この本の体裁を見て、私も一つ「今日、世界は死んだ。…」のEpisodeが思い浮かんだ

34 製本職人
今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。
        製本職人としてこれが最後の仕事になる。書籍の電子化が進んだ中、昔の紙の風合い、手触りを持った製本版を求める天邪鬼も多少はいたが、所詮は大きな流れの中の泡に過ぎなかった。
        今は電線を頭に差し込んで情報を一気に流し込めるようになって、一部の人間は電波か何かで直接やりとりしているらしい。いちいち文字を目で追うより手っ取り早いらしいのだが、その手の人間の言うことがわからなくて苦手だった。仕事を進めるうえでも一体どこで何が決まってどうしてこうなっているのか、さっぱりわからない。
        路上で人間が突然泡を吹いて発狂したようになって、専用の救急車で運ばれて行くのを良く見たが、離れた相手と脳味噌同士を直接繋いでいるうちに喧嘩になったあげく、人格を破壊されるまでやっつけられた結果なのだそうだ。言葉、文字という媒体を介さずに繋ぐとお互いの自我が剥き出しになるからだと、誰か偉い学者が言っていた。このあいだ、その伝でどこぞの国の大統領ともう一つの国の大統領の間でそれをやってこじれてしまったことが人類の滅亡を決定付けた最後の一撃だったらしい。
        それはそうと、この仕事を仕上げたかったのだが、職人仲間に頼んでいた背表紙の材料はとうとう届かなかった。編集者は表紙のタイトルが決まらないまま死んでしまった。ということで、俺にできることはここまでだ。本を作るということは文化を伝えることだと思っていた時期が俺にもあった。最後の本がこのような形になってしまったのも、人類の文明の終わり方を象徴しているようで、ある意味相応しいかも知れない。さて、後の文明があるのか、この本が発見されるのか、発見できたとしてもこの本の内容を把握できるかどうか期待もしていないが、俺はこの本を手に、この文明の最後のArchiverとしての自己満足を胸に、眠りに就くことにする

こういうことを考えさせられるということは、私もまんまと作家の術中に嵌ったということだろう

図録とは別に、入場者には小冊子が配布されていて、このスキャンを取っておいたが、美術館のHPにもこのイメージが掲載されていることがわかった

東京都写真美術館 杉本博司 ロスト・ヒューマン 作品解説のURL

  • “https://topmuseum.jp/upload/3/2565/sugimoto_list.pdf”
  • “https://topmuseum.jp/upload/3/2565/sugimoto_list_0903.pdf”

直接リンクを張っても良いのだが、昨今のご時世で不用意にリンクを踏むと変なことろに飛ばされるのを警戒する向きもあると思うので、敢えてダブルクォーテーション(“”)で囲み、自分の意志でコピーペーストしてアクセスして頂くようにした。また、ここで直接リンクを張ると、ひょっとして相手先にTrack Back依頼などが行って変なことになるかも知れないのを避けるためもある

公式HPで既に公開されているし、自分のものの方が長期間放置されていたせいで紙が陽に焼けて、いい具合になっていると思うので、掲載しても良いだろうと判断してアップロードしておく。本当の目的は自分の資料の散逸防止のため。オリジナルのサイトにリンクを張ってもいつの間にかリンク切れになっていることがしばしばあるので

リンクはこちら

2023/01/19
んねぞう

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文芸同人誌「澪」のblog

私の所属している文芸同人誌「澪」は、旧来からHPを運用している。今回、よりカジュアルな情報発信、読者との交流の場として新たにblogを設置することとし、私がその担当者に抜擢された。

母港であるHPは、澪の理念に始まる各種情報の集約地点とすることは従来から変わらず、その出城であるblogは、気軽な同人の情報発信、読者との交流の場としてできるだけ多くの人たちに「澪」に興味を持って貰いたいとの狙いである。そのため、情報はHPとの重複は極力避け、Look & Feelも軽くシンプルにした(というか私にはそれしかできないが)

HP、blogとも贔屓にして頂きたいと思う

2022/11/12
んねぞう

澪 対面合評会

9月に私の所属する文芸同人誌「澪」第20号が発刊された。

これに伴い、11月に有志による対面合評会が開催された。以下にその場で頂いた指摘、アドバイスを、今後のための覚書として記しておく。因みに私は今回からインド滞在中に出会った人々を題材に”People I met in India”というシリーズのフォトエッセーを始めた。

  • 写真と文体の調和あるいはコントラストについて

前回までの津軽のフォトエッセーについては、割合尖った文章だったのに今回は文章のタッチががらりと変わったとのご指摘を頂いた。これは、同じ母語/文化を共有する日本の中での津軽という地域の文化の差異という視点から考察して来た中で、はある程度踏み込んだ考察、描写が許されて来た。インドについては、生まれてからのこのような基盤がなく、出張で足繁く通い、それなりに滞在期間は長かったものの基本的には私はインドの表層を撫ぜたTarvellorに過ぎない訳で、津軽のような私なりの理解ができていない状態では、勢い記述が物足りないものになりがちだったからだ。それを踏まえたうえで、改めて調べたり、自分の想像を加えた上で、踏み込んだ記述にして行きたいと思う。

  • この写真でなぜ彼等・彼女等が中間層の子女であることがわかるのか、なぜこの場所にそうでない層の若者が来ないのか、この説明があればもっと厚みが出た

これはご指摘いただくまで全く思いの至らなかった点だった。これまでのインドでの生活の中で、無意識に、その場所と、そこにいる人たちのいでたち、雰囲気、態度等に対するフィルターがかかっていて、読者がどう思って読むかという点からの考慮が欠落していた点であり、ご指摘頂き、目が覚める思いだった。さらに、これらの理由について、私はこう想像するということでも良いから書けば良いということも、貴重なアドバイスだった。

  • 今後インドのフォトエッセーにおいて、中間層の姿はなく、専ら路地裏の人達が登場することになるという私の説明だったが、それではなぜ私が(有名な観光地とかではなく)路地裏を好んで取り上げようとするのかについて触れたほうが良い

確かに、これは私の今後のフォトエッセー、というかこれまでの全体の私の態度の核心をなす部分であると思う。
次回、この点に漏れがないよう、ここに書き留めておく。

その他ページレイアウト(写真と文章の間隔、段落の最初の行のインデント)で、本として仕上げるための作法についても示唆を頂いた

2022/11/03
んねぞう