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文芸同人誌 「澪」加入

私は今般、横浜を中心として活動している文芸同人誌「澪(みお)」の同人に加入させて頂きました(下の画像をクリックするとそのサイトに飛びます)。

今年4月に写真教室に入門し、講師の先生より、ある日、その写真教室の授業の合間に先生の主宰する文芸同人誌への加入のお誘いを頂いたもの。当初、尊敬する先生から、思いもよらなかった同人誌の加入のお誘いと言うことで、嬉しくて舞い上がってしまった。が、さて家に帰って少し頭を冷やして、同人誌のバックナンバーをAmazonで購入して(電子書籍化もされている)読み直して見ると、これはとても私の及ぶレベルではないと恐れをなして一旦はおことわりのMailを出したのだが、その後いろいろあって、参加させていただくことになった。内容はバックナンバーの一冊でも手に取って頂ければわかるが、小説、エッセイ、評論、写真等小冊ではあるがレベルの高い作品ばかりだ。

長い間研鑽、精進を続けて来た、このような集団の中で、私に何ができるだろうと、いろいろ考えたが、結局私には「んねぶら」で発表している表現スタイルしかないので、写真と文章の合わせ技で、自分を表現して行くしかないと思い定めている。昨日初めて編集会議に出席し、自己紹介の後、内容、ページ数、掲載順等について打ち合わせて、その後居酒屋で酒を飲みながら同人の方々とお話をさせて頂いた。皆気持ちの良い人達ばかりで、どうやら私の居場所を作って頂けたようだと感謝しつつ安心している。と同時に、それぞれの「表現」と言うものに対する渇望、気迫がひしひしと伝わって来て、今までへたれブログを綴って来た我が身としては緊張で胴震いがする。反面、これまで関わりのなかった分野の人達から、いろいろ刺激を受け、視野が広がるのではないかと楽しみにしている自分がいる。

2019/12/08
んねぞう

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今宵、フィッツジェラルド劇場で

2007年に 「今宵、フィッツジェラルド劇場で」と言う映画が日本で上映された。”A Prairie home companion”という、米国での人気ラジオショーに題材を取った映画で、私も長年聴いていた。私は映画は興味はなく全くと言って良い程見ない。しかし、この映画だけは機会があれば見に行きたいと思っていたが、時期を逸して現在に至る。 この間思い出して検索して見たら、レンタル落ちのDVDがあったので買って見ている。 Robert Altmanと言う監督の作品で、遺作となったものだという。それはともかくとして、この映画の内容が、実際のラジオ番組を聞いていた身として全く違和感のない、ストーリーに身を任せられるものだった。アメリカの映画とかアニメにありそうなテンポの良さと、しかししっとりとした画面と進行の雰囲気に魅了される。キャストに実際のラジオ番組の出演者も入っており、例えば既に亡くなってしまったSound effects manのTom Keithも実際にSound effectsで出演しているし、声でしか聴いたことのなかった Meryl Streep の演技も見ることができた。私はこの人は歌手だと思っていたが、大女優だったんだ。

この映画が日本で公開されてから12年経ち、世界は大分変わった。この番組の創始者で脚本家で、ホストである Garrison Keillor が2016年に若いマンドリン奏者に番組を引き継いで引退した。その後番組のテイストが変わったので、私はこの番組を聴かなくなったが、後で知ったが翌年セクハラのスキャンダルで、放映した放送会社とも関係を断絶されたとのことだ。映画の中で、出演者の中の4人姉妹の一人が低血糖で気分がおかしくなり、たった59セントのドーナツ代を払い忘れて逮捕された下りが出て来る。 Keillor 自身のスキャンダルでも双方に言い分はあるのだろうが、 Keillor 自身は相手を励ますためにたまたま手が触れた、と言うことを言っているようだ。この場面が符合して、何となく複雑な気分になる。

この映画のラストシーンで、放送局と劇場はテキサスの実業家に売却され、拠点を失った主要メンバが数年後にまた劇場前の小さなレストランで再起の相談をしている所に「天使」が現れ、メンバが微妙な表情をしているのが、この映画の後味をミステリアスなものにしている。この物語の軸はいくつも絡み合っていて、いちいち挙げてもきりがないが、一つ挙げるとすると”死”があると思う。本物のラジオ番組では出てこない「天使」が、「神の導きによって天に召しに」地上に降り立ち、出演者の一人の老人「チャック」を天国に送り出す。その死を発見した愛人に対して、「旅立っただけ」「老人の死は悲劇じゃない」「彼の欠点を許し、愛と優しさに感謝するのよ」と言わせている。監督はこの年2006年11月に亡くなっている。アルトマン監督は自分の死期を悟っていたのではないか、と言うような忖度もしたくなってくる。このDVDには、おまけとして監督とGuy Noir役の Kevin Kline の対談によるオーディオ解説が入っているが、最後のシーンで天使がGarrison、Guyを含む4人の元に現れた時、 Kline はGuyを迎えに来たのだと語り、監督はそうだ、そしてこれはGuyの夢の中の物語だった、Guyは夢から覚めてまた仕事に出かけるのだと述べているが、私はこの見方には与しない。そうだとすると予定調和的な結末となり、物語の奥行きが狭くなる。監督がそのように意図していたとは思わない。あの場面で4人に、しっかり天使が見えていたかどうか、私はGarrisonの視線が定まっていないことが気になる。 Garrisonが最初に気配に気が付いてそれが何かを見極めようとしている。召されに来た本人には、天使の姿が見えないのではないか。何故そう思うかと言うと、天使が前述の「チャック」が舞台袖で出番を待っている時に彼の肩に手を置いた時、本人はそれに気づいていない。ただし、その後、少し体調が悪そうな仕草をして舞台を務めて自分の控室に戻り、蝋燭を点け、レコードを回してベッドに横たわるという場面を見て、老人は何とはなく自分の死期を悟ったのではないかと思うからだ。私にはGarrisonを迎えに来たように思える。 従って、Garrison、そしてチャックが監督自分自身なのだと。

この映画の基調は、中西部の人達のメンタリティーにあると思う。これを伺わせるセリフが耳に残っている(済みません、見栄を張りました、字幕が目に残っている、です)ので、転載する

中西部の者達は災いは無視すれば消えると考えている
(Guy Noir)

我々は暗い大地の暗い人間なのです
事態は悪くなると信じ、悪くなるのを待ってる (*)
人生は苦闘だと教えられて育ちました
幸せになったら、不幸になるまで耐えるのです
中西部の人間は自分の終わりを悠々として受け入れる傾向がある
(以上Garrison)

アメリカ西海岸風の考え方と何と違うことか。因みに、(*)のフレーズに通ずるものがMurphyの法則にもある。

Things go right so they can go wrong.

最後に、私は最近写真教室に通って、構図と言うものを学び始めたところなので、映像の作り方のうまさに感心する。例えば、楽屋の中で、鏡を多用して、登場人物を一つのフレームでいくつものアングルから見せる手法、天使の背景にあった天井の照明器具を天使の輪のように重ねて見せて、天使が去ると同時に電球が切れるような演出。一つのシーンで前景と背景で別々の事象が同時進行している様等。一度見ただけでは気づかないことが多い。

P.S.
10年前の投稿で、「 Tim Russell, Sue Scott, Tom Keith, Fred Newmanの役が入っていないのは寂しい。 」と書いた。このDVDを見て 、Fred Newman以外は出演しているのを見て安心した。

2019/07/20
んねぞう

太宰の「佐渡」について

前稿の佐渡旅行記の冒頭、「私は太宰程の感受性はないにしろ、死にたくはないがその淋しさというものを体験してみようと思う。」と書いた。実は、その太宰の言う淋しさとは何かについて理解が不十分なままであった。旅から帰って、作品を読み返しつつ、考えたのが本稿である。読んでいただける場合は下の「Read the rest of this entry」を押して下さい

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生き物としての人類(3)

「猫」に関連して、関連する部分をもう一か所思い出した。碁石に関する部分。

Quote —-

いざ天下わけ目と云う間際に覗いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支えない。人間の性質が碁石の運命で推知する事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶の世界を、我からと縮めて、己の立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言に評してもよかろう。

—- Unquote

2016/10/19

んねぞう

 

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生き物としての人類(2)

昨日掲題について所感を綴ったが、夏目漱石の「猫」に人間の自殺についての下りが載っていたことを思い出し、読み直して見た。

苦沙弥先生のサロンで、高等遊民のオールスターが集合して駄弁を弄している場面で、文明の進行に伴って人間の自意識が高まり、死に対する恐れによる神経衰弱と言う病気が発明されたが、研究の結果、死は避けられないものと言うことが分明になり、次に如何に死ぬかが問題となった。そこで、自殺者は皆独創的な方法をもってこの世を去るが、そういう知恵も勇気もない人間は巡査が慈悲のためにぶち殺してくれるようになる、というものだった。
この場面は実業家の金田の妻が使用人や金を使ってこそこそと水島寒月のことを調べ回っていることに苦沙弥が憤っていることから始まっている。

日本人も自分の自我と他人の自我の間の窮屈さに辟易しつつ生きて行かざるを得ないことを昔から飽きもせず言い続けている訳だ。

2016/10/16
んねぞう

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