Archive for the ‘文芸同人誌’Category

澪 合評会

4月のある日曜日、私の所属している文芸同人誌「澪」の有志によるFace to Faceによる合評会に参加した。2020年より新型コロナウイルス蔓延に伴い、同人全員が一堂に会しての合評会は開催せず、有志のみでの開催で、私は希望して出席させて頂いており、いろいろなことを教えて頂いて来ている。

今回はこの3月に発行された第19号を対象としたものであり、私の作品に関しては津軽/津軽三味線に対する一つの締め括りというつもりで出したものだった。同人諸氏からは、「なぜお前は津軽や、津軽三味線に惹かれたのか」という明確なメッセージが伝わって来なかったという趣旨のコメントを頂いた。

これまで第15号から、内容が薄いながら津軽に対しての思いを述べて来たつもりだったが、客観的に見ると、もっとインパクトのある内容、書き方が必要であったということが分かった。これまで継続的に私の作品を見てきて下さっている同人諸氏からこのようなコメントを頂くのだから、一般の読者にとってはなおさら伝わりにくいものだったのということは想像に難くない。特に、自分ではシリーズで続けて来たものであっても、一般読者に対しては、ある意味「一発勝負」、つまり、この一篇ですべてをわかってもらうような構成、工夫が必要であるが、そのバランスを取ることが難しいという指摘を編集長の先生よりも頂いた。

次はインド編とすることでほぼ気持ちが固まっているが、これを念頭に心機一転頑張って行きたい。と言っても、これからも内容の薄い「つぶやき」に終始することになるかも知れないが。

注: 近年Twitterの普及で、tweetすることを「つぶやき」と理解している人が多いが、これは正しくは「さえずり」であって、つぶやきとはニュアンスが大分違うと思う

2022/05/08
んねぞう

芸能/芸術の発祥地について-津軽三味線に思う

私の所属する文芸同人誌「澪」の第19号(3月発刊予定)の原稿を先日提出した。第15号から連続して、津軽を題材としてフォトエッセーを発表させて頂いているが、その中で津軽三味線について触れることが多かった。

津軽三味線は津軽の風土、それが作り出した津軽人の独特な気質と相まって、「神原の仁太坊」という、津軽人としての気質を人一倍備えた人間が、失明という逆境に抗って、自身の芸術的才能によって創始したものを、彼に続く弟子達が辛辣な聴衆と火花を散らしながら、民謡の伴奏から独立したジャンルとして確立してきたものと理解している。それが、これまでと全く違う奏法、興行の仕方の三味線芸術成立の素となった。当然、その芸術は、「津軽」「津軽の気候風土」「津軽人」というものが色濃く投影されて成立しているものであり、特に津軽三味線は「楽しむ」ためではなく、「生きる」ためのものであり、盲人という、当時を生きる人間にとって強烈なハンディを持った人たちが生きて行く数少ない手段の一つであったということに注意しなければならない。冬の雪降るさ中、晴眼者、多くは妻、子供、あるいは弟子に手を引かれながら門付けをして少ない報酬を得て旅をする、また演芸会では聴衆の容赦ないヤジに耐えながら演奏をする、そうしてわずかな生活の糧を得て行く中で数えきれない人々が命を落としていったことだろう。津軽の三味線弾きは、「なりたくて」なったのではなく「それしかなかった」というDesparateな選択でしかなかった。そういう状況に追い込まれ、生きて行くことは、如何に演奏で聴衆(多くは農民)の度肝を抜いて、民謡の歌い手でなく伴奏とされている三味線に目を向けさせるかという「闘い」であった。

そのような経緯で成立した津軽三味線だが、現在は「……流」という流派が派生し、家元制度に基く津軽三味線教室も盛んだ。また、三味線の演奏者も多く輩出し、メディアへの露出も広がっており、中にはスター的な演奏者もいるようだ。しかし、そのような商業化と共に、その中心は東京に移りつつあり(もちろん、津軽三味線の本拠地である津軽に留まって活動をしている演奏家も多く存在すると思う)、だんだんソフィスティケートされつつあるように感じる。芸術の進化の形として、私はそれがいけないと言いたい訳ではない。芸術は聴衆を心地よくさせ、感動を与えるものであって、その求めるものが変わって来たら変わって当然だと思う。そうでなければその芸術は見捨てられてしまうから。しかし、私の中の「津軽三味線」は、長い地吹雪の冬、雪解けで花々が一斉に咲き乱れ、鳥々が鳴き交す春、収穫の喜びに村が湧きたつ秋、そういう自然と生活、津軽人が喜怒哀楽をぶつけ合う坩堝の中で、三味線で「生きる」こと、もっと生々しくいえば「食う」ことに、それこそ命をかけた三味線弾きの叩きだしたもの、というものである。だから、現代の津軽三味線は、私の中では「津軽三味線」ではなく、「第二次津軽三味線」という、明確な線が引かれている。私はこれを他人に押し付けるつもりはない。私の理解を披歴しているだけであり、第二次津軽三味線は堕落している等と言う積りもない。しかし一面、これは津軽三味線だけの問題ではなく、小島一郎の写真のように、津軽に根差した写真で中央に進出して活動した結果、その基盤となる津軽から乖離して行くという共通のジレンマがあるように思えるのだ。繰り返しになるが、津軽三味線が津軽の基盤から離れて行くのをいけないと言っているのではない。

これまで「澪」のフォトエッセーを書く度に津軽三味線について考えてきたが、このような経路を辿って来た帰結として、私は現代の津軽三味線とは多少の距離を置くことになるだろう。

津軽三味線の成り立ちについて数少ないながらも何冊かの書籍を読んで、上記のような結論を持つに至った。その中で私の知識の中核をなした本は,「 定本 弦魂津軽三味線」 第3刷, 大條 和雄,弘前市, 津軽三味線歴史文化研究所, 2009年7月である。

著者の大條氏は2020年4月に逝去されたと聞く。ご冥福をお祈り致します。

岩木川の神原の渡し跡を示す石碑と、大條氏の揮毫による仁太坊の石碑。今は神田橋という立派な橋がかかっている

「澪」の津軽編は、今号か、次の20号で終わりにして、次はインド物を計画している。

2022/02/02
んねぞう

澪 読後感

私の所属する文芸同人誌「澪」の第18号が9月に発行され、同人同士で読後感を交換することが行われている。本来はFace to Faceで合評会を行うのだが、新型コロナウイルス感染症の拡大以来、安全のために中止し、Mailでの交換となっているのが残念だ。私は2年前、加入した初回だけこの合評会に出席させて頂いたきりで、未だ一度もお会いしていない同人もいたりする。

先日、この18号の全員の読後感が纏められたものが編集長より全員に送られてきた。それを読んで今回思ったのは、私の、他の同人の作品の読みの浅さだ。ある人は他の同人の作品について、より深く、本質を突いた論評をしているのに対して、私は、その作品の構造、背景を理解したいと思うあまり、論理的な筋の追跡で終わってしまっている。演劇で言えば舞台の書割の良し悪しばかりに目が行って、役者の動きや、それで何を表現しようとしているか、それについて自分は何を思ったかという視点からの検討までに至っていないということだ。

やはりぽっと出の新入りの同人では底が知れている訳で、他の同人のやりようを見ながら自分も少しずつそういう態度を身に着けていくしかあるまいと思っている。しかしこれは、私の今までの生き方からしてなかなか身につかないできたもののひとつだ。形から入るタイプだが、その本質に到達できずに入り口辺りでうろうろしていると言う…

2021/10/23
んねぞう

眠れぬ夜に

正確に言うと眠れないのではなく、眠りが浅く夜中に何度か目覚めてしまう。目が覚めたときは無理をせず、スマートフォンやタブレットを見て、いつの間にか寝ている、と言うことを繰り返す。そういう時には、宇宙論とか、これに関連する数学、物理の掲示板や記事を読む。いずれも到底私の入ってゆくことのできない、深い世界を伺うことのできるものだ。書いてあることを理解することや、関連項目をWebで調べるということもしない。わからないことはわからないなりにそのまま目で追って行く。そうしているうちに眠気が再び訪れて、次また目が覚めるまでは寝ていられる、ということを繰り返している。

これはよく言われる、難しい本を読んでいると眠くなる、という現象なのだろうが、わからないながら読んでいるうちに、宇宙論についての現在の進展状況などが時折頭に残っていたりしている。また、数理物理と宇宙論の関係についても、なんとなくイメージがつかめてきたりする。今の宇宙論や量子力学は、観測や実験と数学的な演繹が両輪となって進んできているが、時には数学的な議論が先行して未知の現象が予言され、それを観測が後追いしてノーベル賞もの(最近はブラックホールやヒッグス粒子)になったりしているが、逆に数学がはるか先に行ってしまい、もはや観測や検証のしようのないモデルがあるようにも思える。例えば、超弦理論のように、場の実現に人類の生み出せる以上のエネルギーを要したり、それでなくても11次元空間の存在など、もはや人間の物理的直観を超えてしまっているモデルが編み出されている。また、宇宙の起源を探るのに必要な力や質量のバランスを考えるのに、どうしても足りないものをダークエネルギーとかダークマターとか名付けて、実態はまだわかっていないのにその存在を仮定して議論を進め、そのダーク何とかの追及は別に進めているというような、直接観測できないものについての挑戦もあるようだ。

宇宙の起源はどうなっているのだろうか…ビッグバン、インフレーション、ふむふむ、そしたらその前は?とか、宇宙の大きさは…人類にとって観測可能な宇宙というものはあるが、その先はどうなの?とか、本当に優秀な頭脳がしのぎを削って探求しているテーマだが、私のようなボンクラにとっては「ロマン」と言う便利な言葉が用意されている。私は、学校では機械工学の専攻だったが、この学問が拠って立つのは「保存則」である。例えば、質量、エネルギー、運動量等。私が大学に入学したときに電気・電子系の学科を選択しなかった理由は 、それらが不可視だったからだ。回路の中をどれだけの電流、電子が流れるか、その保存則を直観できなかったせいだ(せいぜいキルヒホッフの法則まで、それも交流はダメ)。ここらへんがまたボンクラ程度を表すものだが、それは措いておいてだ、仕事を離れて、こういう無から何かが生まれたとか、一見理屈の通らない話を聞くのは面白い。無に見えているのだが、実はこういうことなのだよと教えられた時にへー、と感心するのも楽しい。例えば、昨日Youtubeで見たシュレディンガーの波動方程式の授業(もう授業と言って良いレベルだった)で、粒子の持つエネルギーレベルが周囲のこれより高いエネルギー障壁に囲まれていても、確率的にこれを飛び越えることは可能である、ということを波動方程式を展開しながら鮮やかに説明しているのを見て、わからないながらほー、へーと引き込まれていた。これをべたな例えでいうと、壁を通り抜けることができる、ということだ。ただし、マクロレベルで見るとこの確率は極々小さいので実現することは期待できないそうだが、こんな話をして周囲を煙に巻くことくらいはできそうだ。

ハッブル宇宙望遠鏡によって発見された星雲

↑嘘です、私が夜近所で撮った月と雲です

ここで話の急ハンドルを切らせてもらう。先日私の属する文芸同人誌の最新号ができた。同人の作品の感想を書く段になって、今回の主要な作品の一つについて、その構造が難解なので頭を捻った。物語を描写している「主体」が、主人公なのか、いや主人公ではないのは、最初は明らかなのだが、だとしたらはそれは誰、というか何?、生物or無生物? 物質的存在or霊的存在? という難解さから始まって、最後の方がまた不可思議な変容を遂げて、不可思議なまま終わるという流れになっている。これを読みながら、実は私は上のような宇宙論の在り方を考えるのに通じた感覚を覚えていた。文章の表面上に現れる記述をそのままなぞっていたのでは解き明かせない物語の実相は、実はこの紙面の属する多次元世界と繋がっていて、作者はそれを何とか2次元の紙上で表現しようとして苦心して、読者もそれ相応の素養を要求されているのだ、と。ただしここには数学的な素養等は必要なく、ただただ読み手の自由な想像力に委ねられているのだ、たまたま私は宇宙論等というがちがちの科学とロマンの詰め込まれた話を睡眠学習したおかげでこのような見方に至った、と。

実は明日同人の合評会が予定されているので、この話を披歴しようと、今書いて思った。

そうだ、文芸同人誌「澪」17号が発売されています。この記事を読んで興味を持たれた方は是非下記リンクより購入を!

文芸同人誌「澪」

2021/05/03
んねぞう


文芸同人誌 「澪」 合評会

私が所属している文芸同人誌「澪」の第16号が9月に発行されたのを受け、その合評会が昨日開催され、出席した。私は前号の15号の時から加入したのだが、この時は新型コロナウィルスのパンデミックの真っ最中で中止され、Mailの交換のみに留まっていたので、今回が初めての参加となる。事前に写真教室の師でもある編集長から開催について打診があり、自分や人の作品について、論評するということは一方通行ではあり得ず、インタラクティブであるべきだと思っていたので、私は一も二もなく賛成した口である。編集長の先生には場所の確保に加えて感染予防対策に大変な気を遣って戴き、恐縮している

私は新参者で、文芸活動の経験も浅いので、さぞかし辛辣な批評が出るだろうと、何を言われても良い覚悟を決めて、かつ翌日ショックで寝込んでしまっても良いように会社の休暇を取って臨んだ

4時間近くに及ぶ合評会で、他の同人についての批評、というか私の場合は感想を披瀝し、自作についての思いを話し、そして批評、アドバイスを頂き、非常に充実した、有意義な時間だった。自分の写真と文章の間合いについてのアドバイスを頂き、① 16号の文体を維持し、写真についてはもっと抽象性を帯びたものにしてフォトポエムという体裁にするか、② 15号の路線を継承して、紀行文スタイルとして、文と写真をある程度沿わせる形で、場合によっては少し外した部分を作るかという方向性を見つけることができた。また、写真の作法についても、構図と文のマッチングについて、またまた目から鱗のアドバイスを頂いた。自分の方向、位置づけについては皆さんから承認を頂けたようだが、作風が定まるまで、まだまだ試行錯誤が続くと思う

皆さん、非常に建設的に、優しくアドバイスをして下さり、お蔭様で今日はふて寝することなく、こうしてBlogを綴ることができている、という訳です

私が加入しているからと言って、素人ばかりの集まりだと思ってもらっては困ります。中には全国区の文学賞を狙えるようなレベルの作品を書く人もいるので、うん、ボクもこの文学賞を受賞した人と同じ同人誌の同人なんだけどね、とか、いつか小鼻をひくつかせて自慢できるような日が来るのではと、密かに思い始めています

今、澪では新たに同人を募っているので、興味のある方は「澪」のBlogから編集長に連絡を頂ければと思います

2020/10/26
んねぞう

26

10 2020