Archive for the ‘文芸同人誌’Category

文芸同人誌「澪」23号 – もう書くことがない

私の所属している文芸同人誌「澪」の第23号が3月に刊行され、昨日同人による合評会が開催された

前号(22号)の私のフォトエッセイに対して、同人から一様に受けた指摘は、写真を撮ったその場で、自分が何を考え、何を思ったのかを前面に出した方が良いというものだったので、今号はそのようにしてみた。その結果、合評会の席では、自分を「偽善者」と規定してしまっていること、特に最後の頁ではこの言葉が3回も使われていることなどから、なぜ自分を偽善者と規定したか、と言う点に議論が集中した。自分なりに、本当に考えたことをそのまま文章にして、書ききったことに対して、同人には真摯に読んで頂き、議論して頂いた

— それはそうとして —

自分がどう考えたか、と言うことについて、考えていることを突き詰めて書いた。フォトエッセーとして、インドだろうが津軽だろうがどこで何を撮って書いても、結局は23号に書いてあることがすべてなので、もうこれ以上書くことがない

次の原稿をどうしよう

2024/04/30
んねぞう

30

04 2024

文芸同人誌「澪」22号合評会

2023年11月26日、澪22号の合評会が編集長以下4名の同人の出席の下に開催され、各人の作品についての濃密な議論が交わされ、私の作品についても有益なアドバイスを頂いた

私は毎回フォトエッセーを投稿しているのだが、最後のインド人の幼い兄妹の写真を撮った際に、「貴方はこの写真を撮った時に、相手に対して何らかの不安を与えたことになるが、あなたは相手の人生に対して何らかのコミットをしたことになることを自覚すべきです」と言う指摘を頂いた。写真を撮るということが、そのような重みをもつ場合もあることに気付かされた

2023/11/26
んねぞう

26

11 2023

澪22号が出来上がった

私の所属する文芸同人誌「澪」の同人誌第22号が出来上がり、送られてきた。15号からの加入なので、これで8回目になる

私の作品はフォトエッセーと言う触れ込みなので、写真と文章のハイブリッドな構成により、表現の相乗効果を狙うべきところである

写真については、他の号とは違い、何故か階調が良く表現されているが、逆に私の意図した、暗部がどすんと落ちたインパクトのあるイメージではなくなってしまった。出来上がりをイメージして入稿の際に調整したのが、これまでの経験が作用して、かえって自分の意図をスポイルしてしまっているかも知れない。これは振り子のような揺り戻し効果のため、収束するのにもう少し時間が必要なのかも知れない。と言うか、お前は「澪」15号以来何回揺れているのだ、と言う突っ込みは必至だが

文章についても他の同人諸氏と比べて突き詰め方が浅く、何だかなあ、と言う感じである。ページ構成の都合で、一ページに写真を張り付け、そのページ内で叙述を完結させるという制約の中だとどうしても書ききれない内容が出てしまう。これは言い訳だ。ちゃんとした物書きは限られた字数でも余すことなくその思想を展開することができるだろうから

毎回、妻と子供達にこの「澪」を「ココロノカテ(心の糧)」としてプレゼントしている。日頃から接している、楽しいもの、新しいもの、光り輝くもの、前向きなものからいったん目を背けて、ひっそりと息づくもの、自己主張がなく、打算のないもの、それこそが尊いもの、それが世界、人生を形作るものである(或いはそうあってほしい)と言うところに思いを馳せてもらいたいという願いからだ

皆私の作品の理解者なのだが、娘から、「もうインド物は飽きた」と言う爆弾発言があった。インド物はこれで4回目になるが、一旦箸休め的に別なものにした方が良いと言うのだ。親父は娘の言葉を無碍にもできず、多分この先数か月、どうしようか悩むことになるだろう

上の写真は私の今回の作品の写真の一部である。女性の写真を敢えて選んで掲載したところに、澪の販売部数の増加を意識した下心が潜んでいる

2023/10/27
んねぞう

パソコンで文書を作成する時のTabキーの挙動について

昨日、私の所属する文芸同人誌の合評会の席上、段落と字下げ(インデント)のことについて問題提起を頂き、考えているところを書いた

暇なので、インデントの時に使うTabキーの挙動について述べたい

まずは下の表を参照願いたい。一般の文字”a”や空白にはユニークな文字コードが割り当てられており、それぞれ決められた文字を画面上に表示するように決められている。それに対して、Tabキーは制御コードとして、これをどのように扱うかはシステムである程度決められるようになっている。例えば、Tabの①のケースでは、作成するソフトでは、TabはTabの制御コードのままで、画面上の表示は半角空白4つ分と定義することができる。一方、受け側でもTabキーをどう扱うかを決めることができ、Tabコードとして扱うのか、空白に置き換えて使うか、その表示をどうするかを決めることができる

具体例を下に示す。左の青い画面は、私が普段使っているText editorで、Tabは空白4文字分の間隔を空けると設定している(最初の2行は桁数を表す目印です)。3行目にTabを置いて、次いで小文字の”a”を置いたもの。半角スペース4つ分の間隔の後に”a”と表示されているのがわかる。”>”という記号はこのエディタがTab記号を表示するのに使っている記号である。ここで注意して欲しいのは、実際に空白を4つ置いているのではなく、空白4つ分の空白を空けるように表示を制御していると言うこと

これをコピーして、Microsoft Wordに張り付けて見たのが右の図。WordではTabを表す記号に”→”が使われている。これでWordはTabキーはTabとして認識していることが わかるが、”a”の位置に注目して欲しい。Text editorでは”a”が5桁目にあるのに対してWordでは4桁目にあるので、送り元のText editorとは違い、Tabには半角空白3つ分しか取られていないことになる。これでわかるように、Tabの扱いは送り手、受け手で可変なので、必ずしも送り手の意図通りには表示されない

Tabは昔タイプライターで表の形式で文書を作成するときに、一定の間隔をあけてキャリッジ(パソコンで言うカーソル)を移動するために設けられた。Tabは多分(駄洒落分かって下さいまたは堪忍して下さい)”Table”から来た名前だと思うが、それが、英文のインデントを入れるのにも使われてきたという経緯がある。だから、字下げにTabを使うのは正当だと思うが、コンピュータで使う場合は再現性が担保できないことが分かっているので使いたくない。それでは空白を使えば良いかと言うと、私はそういうやり方はスマートではないので好きではない。よってインデントは、作品のようなこだわって作成する文書には使いたくないのだ

補足だが、ここではパソコンで原稿を作成して、他者に送って編集してもらうときのことを言っており、予めTabの取り扱いについてルールが決めてある場合や、自分で印刷まで行って、印刷上の体裁までコントロールできるような場合は上の限りではない

2023/05/01

澪 対面合評会 並びに段落のインデントについて

私の所属する文芸同人誌「澪」21号が3月に発行され、対面合評会が、連休の初日、4月29日に開催された

私の作品についても、同人諸氏からいろいろ有益な助言を頂いた。中身について、おおむね評価を頂いたが、編集長の先生より、頁毎の客観、主観という見方とその構成について、目を開かせられるアドバイスを頂いた。これは他の同人諸氏も同じ思いを持たれた様だ

段落の件について考えさせられることがあったので記しておきたい

私の作品は、1頁に写真1枚、その下に若干(130~280字程度)のキャプションを配置するという構成である。キャプションの字数は大したことはなく、1段落で済むような分量なので、これまで段落を分けること、段落の1行目を字下げするということはしないで来たが、なぜ段落分け、字下げをしないのかという問いを頂き、改めて考えてみた

段落についての私の基本的な考え方はこうである

仕事の文書も含め、長文の場合は、段落毎に1行空け、字下げはしない。私のブログの過去の記事を例として下に掲げる。左はWordpressが段落毎に隙間を自動的に空ける仕様となっていることもあり、段落と段落の間が空いている。右は、同じ文章をMicrosoft Wordに流し込んで、段落の間に改行を入れたもの。Wordの場合は、段落後の行間の幅を調節する機能があるので、その幅を大きく取るという方法を取ることもある

なぜ私が字下げをしないことにこだわるかというと、Word、Mailソフト、あるいはテキストエディタでインデントを入れる際はTabキーを使うのだが、これが使うソフトによって、またその設定によってその幅がスペースいくつ分かが違って来て、私が意図したスペースで再現できないことがあるからだ。例えば、私の使っているテキストエディタでは、インデントしたい場所でTabキーを打つことでTabの文字コードが埋め込まれていくが、表示上何桁分とするかを設定できる。しかし受け取った先でも、Tabキーのままか、スペースに置き換えられるのか、スペースいくつ分と解釈するのかは相手側のソフトの設定でどうともなる。それではと言って、スペースで埋めるといっても、スペースキーを何回もカタカタと叩いて入れるのはあまり美しくないし、全角、半角のスペースが混在しても気づかないという問題がある。なので、私はあまりインデントは使いたくないのだ

ということで、下記の原則を掲げてしばらくは進みたい

1. 長文の場合は、段落毎に1行空け、字下げはしない
2. 私の澪の作品のように、一つの頁で段落が一つしかない
    場合はこの考え方を踏襲して、段落が一つの場合は字下
    げはしない。段落が2つ以上になる場合は、行を開けるか
    どうかは紙面のスペースとの勘案で、行を開けるか、また
    は行を空けないで最初の行をインデントするかを考える
3. 英語の文章の場合は、これを意識して見たことがなかっ
    たので、これから注意して見て、どうするか考える

私のブログの文章を見て、段落の最後の文の文末に句点「。」がないことにお気づきの方もおられるかもしれないが、これについては私も意識してそうしている。理由は、上の段落の話以上につまらない個人的な拘りなので言わない

2023/04/30
んねぞう

文芸同人誌「澪」のblog

私の所属している文芸同人誌「澪」は、旧来からHPを運用している。今回、よりカジュアルな情報発信、読者との交流の場として新たにblogを設置することとし、私がその担当者に抜擢された。

母港であるHPは、澪の理念に始まる各種情報の集約地点とすることは従来から変わらず、その出城であるblogは、気軽な同人の情報発信、読者との交流の場としてできるだけ多くの人たちに「澪」に興味を持って貰いたいとの狙いである。そのため、情報はHPとの重複は極力避け、Look & Feelも軽くシンプルにした(というか私にはそれしかできないが)

HP、blogとも贔屓にして頂きたいと思う

2022/11/12
んねぞう

澪 合評会

4月のある日曜日、私の所属している文芸同人誌「澪」の有志によるFace to Faceによる合評会に参加した。2020年より新型コロナウイルス蔓延に伴い、同人全員が一堂に会しての合評会は開催せず、有志のみでの開催で、私は希望して出席させて頂いており、いろいろなことを教えて頂いて来ている

今回はこの3月に発行された第19号を対象としたものであり、私の作品に関しては津軽/津軽三味線に対する一つの締め括りというつもりで出したものだった。同人諸氏からは、なぜ私が津軽や、津軽三味線に惹かれたのかという明確なメッセージが伝わって来なかったという趣旨のコメントを頂いた

これまで第15号から、内容が薄いながら津軽に対しての思いを述べて来たつもりだったが、客観的に見ると、もっとインパクトのある内容、書き方が必要であったということが分かった。これまで継続的に私の作品を見てきて下さっている同人諸氏からこのようなコメントを頂くのだから、一般の読者にとってはなおさら伝わりにくいものだったのということは想像に難くない。特に、自分ではシリーズで続けて来たものであっても、一般読者に対しては、ある意味「一発勝負」、つまり、この一篇ですべてをわかってもらうような構成、工夫が必要であるが、そのバランスを取ることが難しいという指摘を編集長の先生よりも頂いた

次はインド編とすることでほぼ気持ちが固まっているが、これを念頭に心機一転頑張って行きたい。と言っても、これからも内容の薄い「つぶやき」に終始することになるかも知れないが

注: 近年Twitterの普及で、tweetすることを「つぶやき」と理解している人が多いが、これは正しくは「さえずり」であって、つぶやきとはニュアンスが大分違うと思う

2022/05/08
んねぞう

芸能/芸術の発祥地について-津軽三味線に思う

私の所属する文芸同人誌「澪」の第19号(3月発刊予定)の原稿を先日提出した。第15号から連続して、津軽を題材としてフォトエッセーを発表させて頂いているが、その中で津軽三味線について触れることが多かった。

津軽三味線は津軽の風土、それが作り出した津軽人の独特な気質と相まって、「神原の仁太坊」という、津軽人としての気質を人一倍備えた人間が、失明という逆境に抗って、自身の芸術的才能によって創始したものを、彼に続く弟子達が辛辣な聴衆と火花を散らしながら、民謡の伴奏から独立したジャンルとして確立してきたものと理解している。それが、これまでと全く違う奏法、興行の仕方の三味線芸術成立の素となった。当然、その芸術は、「津軽」「津軽の気候風土」「津軽人」というものが色濃く投影されて成立しているものであり、特に津軽三味線は「楽しむ」ためではなく、「生きる」ためのものであり、盲人という、当時を生きる人間にとって強烈なハンディを持った人たちが生きて行く数少ない手段の一つであったということに注意しなければならない。冬の雪降るさ中、晴眼者、多くは妻、子供、あるいは弟子に手を引かれながら門付けをして少ない報酬を得て旅をする、また演芸会では聴衆の容赦ないヤジに耐えながら演奏をする、そうしてわずかな生活の糧を得て行く中で数えきれない人々が命を落としていったことだろう。津軽の三味線弾きは、「なりたくて」なったのではなく「それしかなかった」というDesparateな選択でしかなかった。そういう状況に追い込まれ、生きて行くことは、如何に演奏で聴衆(多くは農民)の度肝を抜いて、民謡の歌い手でなく伴奏とされている三味線に目を向けさせるかという「闘い」であった。

そのような経緯で成立した津軽三味線だが、現在は「……流」という流派が派生し、家元制度に基く津軽三味線教室も盛んだ。また、三味線の演奏者も多く輩出し、メディアへの露出も広がっており、中にはスター的な演奏者もいるようだ。しかし、そのような商業化と共に、その中心は東京に移りつつあり(もちろん、津軽三味線の本拠地である津軽に留まって活動をしている演奏家も多く存在すると思う)、だんだんソフィスティケートされつつあるように感じる。芸術の進化の形として、私はそれがいけないと言いたい訳ではない。芸術は聴衆を心地よくさせ、感動を与えるものであって、その求めるものが変わって来たら変わって当然だと思う。そうでなければその芸術は見捨てられてしまうから。しかし、私の中の「津軽三味線」は、長い地吹雪の冬、雪解けで花々が一斉に咲き乱れ、鳥々が鳴き交す春、収穫の喜びに村が湧きたつ秋、そういう自然と生活、津軽人が喜怒哀楽をぶつけ合う坩堝の中で、三味線で「生きる」こと、もっと生々しくいえば「食う」ことに、それこそ命をかけた三味線弾きの叩きだしたもの、というものである。だから、現代の津軽三味線は、私の中では「津軽三味線」ではなく、「第二次津軽三味線」という、明確な線が引かれている。私はこれを他人に押し付けるつもりはない。私の理解を披歴しているだけであり、第二次津軽三味線は堕落している等と言う積りもない。しかし一面、これは津軽三味線だけの問題ではなく、小島一郎の写真のように、津軽に根差した写真で中央に進出して活動した結果、その基盤となる津軽から乖離して行くという共通のジレンマがあるように思えるのだ。繰り返しになるが、津軽三味線が津軽の基盤から離れて行くのをいけないと言っているのではない。

これまで「澪」のフォトエッセーを書く度に津軽三味線について考えてきたが、このような経路を辿って来た帰結として、私は現代の津軽三味線とは多少の距離を置くことになるだろう。

津軽三味線の成り立ちについて数少ないながらも何冊かの書籍を読んで、上記のような結論を持つに至った。その中で私の知識の中核をなした本は,「 定本 弦魂津軽三味線」 第3刷, 大條 和雄,弘前市, 津軽三味線歴史文化研究所, 2009年7月である。

著者の大條氏は2020年4月に逝去されたと聞く。ご冥福をお祈り致します。

岩木川の神原の渡し跡を示す石碑と、大條氏の揮毫による仁太坊の石碑。今は神田橋という立派な橋がかかっている

「澪」の津軽編は、今号か、次の20号で終わりにして、次はインド物を計画している。

2022/02/02
んねぞう

澪 読後感

私の所属する文芸同人誌「澪」の第18号が9月に発行され、同人同士で読後感を交換することが行われている。本来はFace to Faceで合評会を行うのだが、新型コロナウイルス感染症の拡大以来、安全のために中止し、Mailでの交換となっているのが残念だ。私は2年前、加入した初回だけこの合評会に出席させて頂いたきりで、未だ一度もお会いしていない同人もいたりする。

先日、この18号の全員の読後感が纏められたものが編集長より全員に送られてきた。それを読んで今回思ったのは、私の、他の同人の作品の読みの浅さだ。ある人は他の同人の作品について、より深く、本質を突いた論評をしているのに対して、私は、その作品の構造、背景を理解したいと思うあまり、論理的な筋の追跡で終わってしまっている。演劇で言えば舞台の書割の良し悪しばかりに目が行って、役者の動きや、それで何を表現しようとしているか、それについて自分は何を思ったかという視点からの検討までに至っていないということだ。

やはりぽっと出の新入りの同人では底が知れている訳で、他の同人のやりようを見ながら自分も少しずつそういう態度を身に着けていくしかあるまいと思っている。しかしこれは、私の今までの生き方からしてなかなか身につかないできたもののひとつだ。形から入るタイプだが、その本質に到達できずに入り口辺りでうろうろしていると言う…

2021/10/23
んねぞう

眠れぬ夜に

正確に言うと眠れないのではなく、眠りが浅く夜中に何度か目覚めてしまう。目が覚めたときは無理をせず、スマートフォンやタブレットを見て、いつの間にか寝ている、と言うことを繰り返す。そういう時には、宇宙論とか、これに関連する数学、物理の掲示板や記事を読む。いずれも到底私の入ってゆくことのできない、深い世界を伺うことのできるものだ。書いてあることを理解することや、関連項目をWebで調べるということもしない。わからないことはわからないなりにそのまま目で追って行く。そうしているうちに眠気が再び訪れて、次また目が覚めるまでは寝ていられる、ということを繰り返している。

これはよく言われる、難しい本を読んでいると眠くなる、という現象なのだろうが、わからないながら読んでいるうちに、宇宙論についての現在の進展状況などが時折頭に残っていたりしている。また、数理物理と宇宙論の関係についても、なんとなくイメージがつかめてきたりする。今の宇宙論や量子力学は、観測や実験と数学的な演繹が両輪となって進んできているが、時には数学的な議論が先行して未知の現象が予言され、それを観測が後追いしてノーベル賞もの(最近はブラックホールやヒッグス粒子)になったりしているが、逆に数学がはるか先に行ってしまい、もはや観測や検証のしようのないモデルがあるようにも思える。例えば、超弦理論のように、場の実現に人類の生み出せる以上のエネルギーを要したり、それでなくても11次元空間の存在など、もはや人間の物理的直観を超えてしまっているモデルが編み出されている。また、宇宙の起源を探るのに必要な力や質量のバランスを考えるのに、どうしても足りないものをダークエネルギーとかダークマターとか名付けて、実態はまだわかっていないのにその存在を仮定して議論を進め、そのダーク何とかの追及は別に進めているというような、直接観測できないものについての挑戦もあるようだ。

宇宙の起源はどうなっているのだろうか…ビッグバン、インフレーション、ふむふむ、そしたらその前は?とか、宇宙の大きさは…人類にとって観測可能な宇宙というものはあるが、その先はどうなの?とか、本当に優秀な頭脳がしのぎを削って探求しているテーマだが、私のようなボンクラにとっては「ロマン」と言う便利な言葉が用意されている。私は、学校では機械工学の専攻だったが、この学問が拠って立つのは「保存則」である。例えば、質量、エネルギー、運動量等。私が大学に入学したときに電気・電子系の学科を選択しなかった理由は 、それらが不可視だったからだ。回路の中をどれだけの電流、電子が流れるか、その保存則を直観できなかったせいだ(せいぜいキルヒホッフの法則まで、それも交流はダメ)。ここらへんがまたボンクラ程度を表すものだが、それは措いておいてだ、仕事を離れて、こういう無から何かが生まれたとか、一見理屈の通らない話を聞くのは面白い。無に見えているのだが、実はこういうことなのだよと教えられた時にへー、と感心するのも楽しい。例えば、昨日Youtubeで見たシュレディンガーの波動方程式の授業(もう授業と言って良いレベルだった)で、粒子の持つエネルギーレベルが周囲のこれより高いエネルギー障壁に囲まれていても、確率的にこれを飛び越えることは可能である、ということを波動方程式を展開しながら鮮やかに説明しているのを見て、わからないながらほー、へーと引き込まれていた。これをべたな例えでいうと、壁を通り抜けることができる、ということだ。ただし、マクロレベルで見るとこの確率は極々小さいので実現することは期待できないそうだが、こんな話をして周囲を煙に巻くことくらいはできそうだ。

ハッブル宇宙望遠鏡によって発見された星雲

↑嘘です、私が夜近所で撮った月と雲です

ここで話の急ハンドルを切らせてもらう。先日私の属する文芸同人誌の最新号ができた。同人の作品の感想を書く段になって、今回の主要な作品の一つについて、その構造が難解なので頭を捻った。物語を描写している「主体」が、主人公なのか、いや主人公ではないのは、最初は明らかなのだが、だとしたらはそれは誰、というか何?、生物or無生物? 物質的存在or霊的存在? という難解さから始まって、最後の方がまた不可思議な変容を遂げて、不可思議なまま終わるという流れになっている。これを読みながら、実は私は上のような宇宙論の在り方を考えるのに通じた感覚を覚えていた。文章の表面上に現れる記述をそのままなぞっていたのでは解き明かせない物語の実相は、実はこの紙面の属する多次元世界と繋がっていて、作者はそれを何とか2次元の紙上で表現しようとして苦心して、読者もそれ相応の素養を要求されているのだ、と。ただしここには数学的な素養等は必要なく、ただただ読み手の自由な想像力に委ねられているのだ、たまたま私は宇宙論等というがちがちの科学とロマンの詰め込まれた話を睡眠学習したおかげでこのような見方に至った、と。

実は明日同人の合評会が予定されているので、この話を披歴しようと、今書いて思った。

そうだ、文芸同人誌「澪」17号が発売されています。この記事を読んで興味を持たれた方は是非下記リンクより購入を!

文芸同人誌「澪」

2021/05/03
んねぞう