雨降り続きの週末、雨に濡れたしっとりした風景を撮りに東京方面の庭園公園に行こうと思い、場所を物色していたところ、皆イベントが予定されており、人出が予想されるので却下となった。
方角を変えて、油壷方面に車で出撃。三井光一氏とは別にシグマの写真を公開されている押本龍一氏が油壷を旅行して投稿されているのを思い出してのこと。途中江の島、鎌倉の海岸沿いの道路を、江の島ではサーフボード、鎌倉ではウィンドサーフィンと、明確に違いがあるのを見ながら走る。
まずは 油壷マリンパークと言う、いかにも人の集まりそうな場所から離れた所の民宿の駐車場に車を停める。台風が接近している小雨の中、海岸に出て見る。先客が一人、ビニール傘を差して岩場でじっと海を見ていた。その人が、道端に止めた横浜ナンバーの車に乗って走り去った後、おずおずと岩場を渡り歩きながら写真を撮る。ここは砂岩質で、海水に濡れた岩場でも滑らないのが良い。
海岸の崖の砂岩の地層。荒々しい波に浸食され、徐々に崩れて行くのだろう。今日は天候も悪く、波も荒いのだが、天気の良い穏やかな日にはどのような表情を見せてくれるのだろうか
諸磯神明社脇の社。説明の看板らしきステンレスの板が脇に立っているのだが、残念ながら説明の文字が消えてしまっていて判読できない。神明社にはなかった供花が、この神社には妙に艶めかしくも色鮮やかに供えてあるのが気になる。Google Mapで調べると小桜姫神社とある。小桜姫をWebで調べると、ちょっと怖そうな話になって来たので、途中で調べるのをやめた
諸磯神明社の表参道の脇道から。水屋に置いてある柄杓の底面とそれを入れる竹筒が異様にそこだけ光が当たっているかのように明るい光を反射しているのが気になった
諸磯神明社近くの漁港に放置されている廃船。ではなく、暫く置いている間に雑草の生命力により占拠されたもの、と言っておこう
場所を油壷に移動。半島の中央を走る馬の背状の道沿いから南に降りて、国土地理院の観潮所まで降りて見る。油壷湾に係留された夥しい数の漁船。諸磯の海岸と違い、静かな海面
一旦道路に戻り、今度は反対側の横堀海岸に降りて見る。岬自体が大きくないうえに所々断崖で区切られているために、小さな海水浴場の砂浜が点在している。海の家に電力を供給するためだろう、海岸ぎりぎり、断崖の下に電柱を立てて電線が張られている。電柱が並んでいる風景を津軽の海岸沿いの国道でも撮影したことがある(風の強い街)。強風に抵抗する意志を、電線がピンと張られている様(さま)に感じ取ったが、ここでは電柱の傾きと言い、少し緩いようだ
再び馬の背に戻り、今度は東京大学の臨海実験施設のあるエリアの遊歩道に入る。ここには三浦一族の拠っていた新田城址があると言う。途中説明板があり、この一帯を支配していた三浦一族が3年間の籠城の末に北条氏に滅ぼされた終焉の地であるとのこと。三浦半島の名前がこの三浦氏によるものであること、また「油壷」と言う名の由来を初めて知った。この遊歩道の突端に荒井浜がある。バーベキュー、貸しボート等の施設があるが、今日は台風接近により貸しボートは休み、バーベキューはそれでも一組が頑張っていた。
それにしても、たかだか高低差が30m程度しかない海岸への昇り降りに、息が続かず足が上がらないという体たらくには困ったものだ。少し体を動かすことを考えなければならない
最後に、油壷マリンパークの前を素通りして胴網海岸の方へ降りて行く。途中当地の最後の領主であった三浦道寸義同(よしあつ)の墓に立ち寄る。昼なお暗く、ISO3200、1/15秒。この写真は墓の傍らに立つ小さな塔。近くの案内板に辞世の句
討つものも討たるるものもかわらけよ
砕けて後はもとの土くれ
とあった。一族の存続のために好むと好まざるに関わらず朝廷を軸とした権力構造に絡め取られ、同じ武士同士で争うことになり、結局はどっちも土くれに還る。まるで使い捨てのかわらけのように。一体なんのことだ。と言う風に読んだ。北条氏は勝者だが、後世に結局豊臣氏に滅ぼされたので、北条氏の末路は予見しないまでも、武士の哀れさを感じ取っていたのではないか。(忖度)
今回は、そもそも自分が人のいない場所を求めてのことではあるが、何だか悲しい歴史を辿るような撮影行となった。この1週間傘を手放せないという天気もこのような撮影を誘起したのかも知れない。こんなことを思いながら、車に戻り、防塵防滴のカメラとレンズに着いた水滴の拭き取りもそこそこに、帰り道についた
2017/10/21
んねぞう
ほんとになんか…アレだね…
でも雰囲気ある写真とれてよかったね
白黒の海岸、ほんとに津軽みたい
コメント有難うございます。そう、今回はアレでした。前回は熊が気になってアレでしたが…
太平洋の側でも、津軽のような雰囲気の景色が見られるのですね。