マトゥラ – Apr. 2011

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インドの、ヒンズー教の聖地の一つ、マトゥラ(Mathura)をぶらぶらした。

マトゥラは、ヒンズー教の神の一人、愛の神とされるクリシュナの生地とされる。なぜこれを知ったかというと、インドに行くようになった初期のころ、日本語のできるガイドの人からこの聖地のことを聞いたから。現在のインドの経済成長で灰神楽が立つような喧噪から一歩離れて、ヒンズー教の教えによる輪廻、因果応報の運命に従って生きている人達もいるということだった。例えば、夫に先立たれた未亡人は放逐される。これは前世で悪い行いをした報いによる宿命であるとされる。ここでは、そのような人達がひっそりと暮らしているというような場所もあるということだった。

早朝、滞在しているデリーの宿をチャーターした車で出発。客は私一人、運転手は2回目で、私の性向は分かっている。下手な観光地には見向きもせず、現地の人から見てありふれた光景を有難がって写真を撮る変な日本人、金払いはまあまあだから別に良いけど、と言う感じだろうか。

途中、渋滞にはまった。映っているのはトラックの運転台。木造。カラフルな彩色。

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デリーから隣のUP(ウッタルプラデシュ)州に入るのに検問があり、積荷に応じて税金を払わなければならない。ここで袖の下が横行しているのだそうな。

出勤途中の人たち、オートリキシャの大きなのに鈴なりになって乗って移動している。

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ようやく太陽が見えてきた。デリー近辺では、朝もやが立ち込めて、夜明けから朝方にかけてはこのような風景となる。もっとも、デリー域内では靄ではなく、PM2.5でかすんでいる可能性が高いが。

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途中朝食兼休憩で入ったドライブイン。文字通り自動車旅行者のための食堂兼宿屋の体。中から堂々たる体格のご婦人が3名、列を なして出て来たので咄嗟に撮った。

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デリーからマトゥラ、そしてその先のアグラまでは、インドにしては快適な道路である。運転手は快調に車を飛ばす。時々大丈夫かな、と思うこともある。この道すがら、牛が道路脇の側溝に仰向けになって死んでいるのを目撃した。いかな神聖な牛でも、大型トラックと勝負したら勝ち目はない。

こちらはカメラを握りしめて、移り変わる風景に目を凝らしている。

下の写真は、途中の村を通過したときに車窓越しに撮ったもの。親と年頃の娘の微妙な距離感。

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そろそろマトゥラの市街に入ったようだ。店舗らしい建物の中で、親子3代が並んで寛いでいる。

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現地のガイドと合流、ヒンズー教の寺院に案内してもらう。この寺院は、街中にどこにでも見られるタイプの寺院。現地の人たちの作法に倣って中に入り、お参りをする。写真も撮らせてもらった。話が長くなるので端折るが、ヒンズー教を調べて行くと、そのストーリーがとても私の理解を超えて、ぎとぎとしている印象しか残らない。そのため、この晴天下、いや炎天下に建っている寺院の彩色も、かすかに眩暈と吐き気を催す。だがこれが異文化体験だと思う。

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市街を通過する中での断面

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車を降りて、いよいよ旧市街を歩く。古い街だけに、路地が細く、迷路のようになっている。当然ながら牛さんも堂々と闊歩している。

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路地で見かけた行者。

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ふと出会った少女。こちらに気付いて振り向いた時の憂いを帯びた眼差しが印象的だった

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ここがクリシュナの生家とされる館。流石に巡礼者が多い。中に入って、儀式に参加させて頂き秘仏(?)の御開帳やその他の像にお参りした。その時撮った写真は、さすがに宗教的に神聖なものと思うので、ここには掲載しない。

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賑やかな通りを歩く。ここは、いわば門前町と言う感じの食べ物屋、土産物屋が軒を並べている。運転手とガイドが付いてそれなりに安全に気を遣ってくれているのだが、私があっちこっち脇道に入り込んだり、立ち止まったり、戻ったりするので、先に行ってしまった。先程寺院の中で写真を撮るためにISO感度を大きく上げた後、屋外に出ても戻すのを忘れたため、画質が荒れてしまっているのが残念だ。私も緊張している。

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面魂のありそうな少年。

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西洋人も含め外国人は一人も見なかった、こんなところに、黄色い肌で平らな顔の東洋人が紛れ込んで来て、カメラを向けたら笑顔でポーズを取ってくれる。これはいったいどういうことだろう。珍しいから? いろいろ考えてみるが、結論が出ない。

また、人々の生活は裕福ではなさそうだが、それほど辛そうな表情も見えない。

冒頭で述べた修道院については、ガイドも運転手も知らないか、あまり話したくなさそうなのでそのままにしておいた。よしんば私がそこを訪れたところで、私に何ができるというわけでもなく(多少の喜捨はするにしろ)、その人達の平穏が乱されるだけのことだと思う。

今回の訪問は、ヒンズー教の眩暈と吐き気を伴うガツン体験であった。マトゥラはこの後も再訪している。その時の発見はまた別途掲載したい。

下の写真は、帰途、信号待ちの時に隣に停まったオートリキシャに乗っていた母子連れ。

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インドでは、とにかく「人」が被写体の多くを占めざるを得ない。それは、数の多さもそうだが、写真に対するアレルギーのなさ、そして今回のように人々の「素」の顔、生活を垣間見ることができるから。仕事で付き合っているインドの高学歴中間層(技術者)の人達も、多分このような根っこを持っているのだろうと思うが、どのように繋がっているのかが、まだ胸にストンと来ないでいる。外国人が、普段は丸の内だか六本木だか赤坂だかのオフィスでスーツをびしっと極めている日本人のエリートサラリーマンが、お盆には帰省して、花と線香を持ってお墓を掃除してお参りし、お寺でお経をあげてもらうのを見ると同じことなのだろうか。

あと、くだらないことだが、インドの人達は顔が黒いので、写真を撮るときに背景が暗いと埋もれてしまう。それで、普通以上に階調の補正をかけてしまっている。その点諒とされたい。

んねぞう