金木-Feb.2020:津軽三味線の幻影を追って

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津軽の旅の3日目、いよいよ最終日だが、今日は今回の旅の目的の一つである、津軽三味線の始祖、仁太坊の生まれた場所、神原を目指す。この周辺は、津軽三味線と、太宰 治とは切っても切れない繋がりがある。この稿でも、この2つについての感懐が中心になる。

初めに、津軽三味線の始祖である「神原の仁太坊」について、一言だけ説明しておきたい。神原の仁太坊は1857年、北津軽郡金木新田 神原に岩木川の渡し守の長男として生まれ、8歳の時に疱瘡で失明した。これが彼の三味線弾きとしての運命を決定付けた。それまでの三味線とは全く奏法も違う、興行の仕方も違う津軽三味線がこの仁太坊を起点として広がって行ったのである。この詳細について知りたい方は本稿の末尾に掲載した参考文献を参照されたい。

この背景にある、津軽人、津軽の気候風土、このようなものに私は惹きつけられて来た。謂わば、ここは私にとっての聖地である。

五所川原でレンタカーを借り、嘉瀬 → 金木 → 神原と大まかにコースを設定した。

五所川原から津軽鉄道に乗ると、金木の手前に「嘉瀬」という駅がある。嘉瀬は、「嘉瀬の桃(太郎)」と呼ばれる、仁太坊の直弟子の一人であり、それまで民謡の伴奏であった三味線を、津軽三味線として独奏楽器に引き上げた一人として知られている人の生地である。ここが嘉瀬か、と興味津々で車を走らせていると、橋の袂(親柱と言うらしい)に像が設えられているのに目が留まった。「奴踊り」という伝承芸能があることを知った。津軽美人が、雪を笠に被りつつ、愁いを帯びた眼差しで踊っているのを見ると、何か胸に迫って来るものがある。この由来を聞くと、やはり津軽人らしい気の動きが感じられる
金木の街に入る。数年前、津軽三味線の全国大会を聞くために初めて金木を訪れた際は、向かい側の津軽三味線会館は観覧したが、「斜陽館」は、その名前からして何か一般受けを狙った観光施設、という受け止め方をしていて、一顧だにせず通り過ぎていた。津軽に取り憑かれてしまった今、太宰治の作品「津軽」にも出てくる大事な、太宰の足跡を知るよすがとなる場所でもあるので、入って見た。
午前9:30現在、観覧者は私一人のようだ。土間と座敷の境をなす障子のガラスの表面は波打っていて、当時から使われていたガラスであろうと思われる。外の、雪囲いをされた庭の景色を反射しているところを撮影する。当時の建築の中では開口が多いと思われるので、雪が積もり、日光が反射で白い光となって横から差してくる室内は、雪のない地方とは景色が異なってくる。そのような光を受けつつ、津軽の人たちは長い冬を過ごしていた。
館内を巡ると、当時の津島家が如何に隆盛を誇っていたかが実感できる。そして、その中で、修治少年は、その家業 = 金貸し、と言って悪ければその家業の上(あが)りからくる裕福さに何かしらの罪悪感を感じつつ育って来たのではないか。それが底流となって、その後の行動、著作となって来たのではないかという思いを強くする
斜陽館を出て、川倉賽の河原地蔵尊を訪れる。ここは、恐山同様、イタコによる「口寄せ」によって 死者を呼び寄せ 、対話する場所でもあった。水子を祀る地蔵が数多く並び、それを慰めるためであろう、色鮮やかな風車が、この季節に行き来する人もない、雪の積もる石段の脇で背中を曲げるようにして立っていた。対面の、同じく雪をかぶった地蔵と「凍(しば)れねが」「寒(さんびー)ぐねが」とお互いに労わるように声をかけているように見えた。 人一人おらず、また参拝に来た足跡もない境内に佇んでいると、親より早く死んだ子供の、賽の河原での苦しみ、子を死なせた親の嘆きが偲ばれて、石段の雪の上に足跡を印すことや写真を撮るのも憚られる気持ちになる 。
ここは、仁太坊の弟子たちの世代の津軽三味線奏者にとっても重要な場所であった。毎年、収穫が終わった秋、農民は、一時の愉楽を得るためにここで催される演芸会で演芸に興じた。その出し物の一つに津軽三味線も供されていたからである。現に、今も一角に「演芸場」という舞台がある。因みに、地蔵堂の入り口から少し離れた場所に、これを記念した石碑が建てられている
地蔵尊前の坂道を登りきると開けた土地になり、何もない所になぜか自動販売機が並んでいる。思わず、「白浪の…」と声が出た(「白浪五人男」で検索してみて下さい)。吹きさらしの地面に、飲料の自動販売機が5台、何の覆いもなく剥き出しで、電柱もわざわざ立てて電気を引き込み、たとえ地吹雪の夜でも、意地でも 動かしてやる、売ってやるという津軽人の「じょっばり」を感じるのは、思い入れが過ぎようか
上述の 川倉賽の河原地蔵尊 は、実は津軽鉄道の駅名にもなっている「芦野公園」の芦野湖の東岸にあり、これを反時計回りに回って、対岸の「芦野公園前」駅に来た。零下2℃だが、風がないのでそれほど寒さは感じない
多分春の桜の満開の時期には非常にきれいな景色なのだろうが、今も桜の枝に付着した、肌理の細かい雪と樹皮の織り成すコントラストがきれいだ。折しも、前の踏切を、津軽鉄道の「走れメロス」号が通過している。ここにも、太宰の文学碑と、津軽三味線発祥の碑が建っている
一路岩木川沿いの神原に車を走らせる。今は神田橋という立派な橋が架かっている袂に、仁太坊生誕の地であることを記す石碑がある。折しも橋脚の改修工事のため、碑の周囲は囲いがしてあって近づくことができない。土手道をしばらく走って邪魔にならないところに車を止め、土手を降りて見る。これは萱であろうか。区画を区切って刈られているように見える。今時茅葺の家は少ないので、津軽の雪原でよく見る防雪の柵に使われるのだろうか
悠揚として流れる岩木川。南にそびえる岩木山と共に、津軽人の心の拠り所であると言う。ここで生まれ育った仁太坊少年も、失明するまではこのような景色を見て、その後もこのような空気を吸い、風に吹かれ、音を聞き、雪を踏みながら育ったのだろう。これらが、どこから噴き出て来たかと思われる熱情のあおりで叩きつけるような彼の津軽三味線の成立のうえで、重要な要素となったことは間違いない。彼は、津軽人の「じょっばり(強情っぱり、天邪鬼)」、「じゃわめぐ(はしゃぐ)」、「えふりこぎ(良い恰好をする)」、「ばしらぎ(はしゃぐ)」、「ちゃかし(軽率)」、「もちけ(もったいぶる)」という特性、そしてその根底にある「汝、何だば(ナ、ナダバ)」という強烈な自尊心、これらを人一倍持ち合わせて、筋目悪しき者として生まれ、失明という運命に抗って、聴衆と火花を散らしながら津軽三味線という大きな結節点を作った。それから150年近く経った今、仁太坊と同じ雪を踏み、空気を吸い、風に吹かれているのだということを自分に言い聞かせ、この旅が終わりを迎えたことを惜しみつつ、この場に佇む

2020/02/10
んねぞう


参考文献
大條 和夫, 定本 弦魂津軽三味線, 第3刷,
弘前市, 津軽三味線歴史文化研究所, 2009年7月


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