生き物としての人類 — 東京都写真美術館 杉本博司 「ロスト・ヒューマン」を観覧して

今日、東京都写真美術館で、杉本博司 「ロスト・ヒューマン」を観覧して来た。

<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>の書き出しのもとに、いくつもの人類の終焉のケースがインスタレーションとともに陳列されていた。写真の展覧を期待してきたのに戸惑ったが、見て行くうちに、私の思っている人類の行く末とダブってきたところがあるので、ここに書き出す。

地球上に人類がここまで蔓延ってきた理由は、一つはその知能だと思うが、その知能が、生物としての自己保存、増殖の本能の基本的要件の充足のデマンドの元に発揮されてきたこと。具体的に言えば、生殖、および自己の生存のための他種からの防御/攻撃。
上に書いた、一点目は他の生き物と違い、人間は一年中発情していること、セックスと言うものが生殖と言う目的から離れて、快楽としても位置づけられていることから、人類は非常に強い生殖能力を持つ、謂わば助兵衛であることは明らかだと思う。
二つ目は、当初は身体能力、知恵が他の動物とどっこいどっこいだったので、その本能に基づいた知能の発動をフルに活用する必要があった。そのお蔭で、人類は他の種を凌駕し、安全に生活できるようになった。しかし、他の種からの防御あるいは攻撃というデマンドに基づく人類の本能は、その段階で何ら修正されることがなく、外敵に対する恐れがなくなった瞬間に、防御すべき、あるいは敵対すべき新たな相手を探す必要が出て来た。他に見つからないので、(それまでも一部ではやっていたのかも知れないが)人類の間で敵を探し、殲滅するということしかできなくなった。人間をこれまで後押ししてきた要素が、自分達を滅ぼす形で働くようになった。この小規模な発動が、例えばオリンピックであり、国家と言う枠に対して、枠外の相手を敵とみなして打ち勝つという行動は、本能に由来すると思う。仮に宇宙人の襲来があったとしたら、人類は一致団結して戦おうとするのかも知れないが、おそらくその中でも内部でいろいろな抗争が起こるのだろう。

「生き物」としての人間の持つ本能を、自分で変えることができない限り、多分このままで行くと自滅するだろう。そして、人類は、そうなる前に何とかしようとすることはできないと思う。それが人類の限界だろう。

まあ、こんな事を気楽に書いているのも、自分が生きている間に世界が死ぬ場面はないだろうと多寡を括っているからだけどさ。

この他に、廃墟となった映画館で、自分で設置したスクリーンに映画を映写している間、8X10カメラで撮影した写真、三十三間堂を撮影した写真の展示があり、それぞれに感じるところがあったので、別途書き込みたい。

2016/10/15

んねぞう

【追記 2016/10/23】

もらった作品解説の末尾にこう書いてある。

Quote —-

本展覧会は、特定の思想信条、政党、宗教、学説等を支持するものではなく、中立的な立場で構成しています。

架空の物語をインスタレーションや写真作品等で構成し、文明が終焉を迎えないよう考察しようとするものです。

—- Unquote

作者はそう思っているのだろう、本気でこういう危機感を持って、淡々と展示をしているのだろう。私には、終焉を迎えないような考察ができない。

【追記 終わり】

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